【第六回】大森静佳歌集『ヘクタール』

お久しぶりです。前回からかなり空いてしまったのですが、まだまだ焚火は燃えてます。

 

『ヘクタール』5首選

郡司和斗 

あなたより先に死にたしそののちのあなたの死後にふたたびを死ぬ

白壁を這う枝の影かろうじてそこにわたしはいたのだけれど

何年も泣いていないというきみが撮った桜のどれも逆光

水中から湖面をみあげていたような春、なまなまと二の腕太る

ドアよりも大きくなって眠りたいいつかあなたがいなくなる冬

 

本野櫻𩵋    

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ

横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所

祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場

録音に拍手は残るもういないひとたちの手の熱いさざなみ

 

 

郡司和斗:いままで選んでおいて触れないで終わった作品もあるから、今回からとりあえず5首喋ってから追加でさらに言及したいやつには言及する流れにするのはどうだろう。

 

本野櫻𩵋:よいと思います。『ヘクタール』を読んだ感想だけど、もちろん取り合わせる物の距離の感覚とか、言い切らない美学みたいなところもさる事ながら、自分の体とか顔とか、そこに流れる水分とか、そういう把握が立体的で凄いなあと思ったな。例えば〈切り株があればかならず触れておく心のなかの運河のために〉とかね、「木」という「物」という認識よりもっと冷たい「別個体」という認識、みたいな感じ。別個体と自分とのリンクと喩のバランスが気持ちいい。なんかね、SFぽい感じ。「かならず」とかね、若干マシンぽいというか。

 

郡司和斗:なんとなく、第一歌集と第二歌集の間にはすごい力の差があるけど、第三歌集は第二歌集の延長にあるなと思った。という最初の印象。身体感覚を使って異次元と繋がるタイプの歌は確かに上手い。

 

本野櫻𩵋:過去歌集は未読だから楽しみだなあ。そういう話を絡めて聞けるのは。

 

郡司和斗:どの程度読めてるか自分でもわかんないけどね。てか、桜魚さんヘクタールから読むの、なんかすげえ。先行ゆずるぜ。

 

本野櫻𩵋:それがビギナーズたまたまだよ。

 

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

 

表題歌だね。表題歌なのに(?)すごい好きだなあ。取り合わせがうまいのはもう言わずもがなうまいんだけど、さびしさの単位が㌶だなと思っても、なかなかネギをぶっこめない。葱がすごい。

 

郡司和斗:表題歌なのに好きって感想が出ちゃうのはわかる。表題歌、表題句って意外とハマらないからな。葱よなあ。これ葱畑なのかな。それとも一本手に持ってるイメージだった?

 

本野櫻𩵋:㌶だから葱畑だな。㌶って農家しか使わん単位だろ、ほんとは。

 

郡司和斗:やっぱ畑よな。そうすると「いまも」が結構効いてくるな。幼少期の原風景としての畑も立ち上がってくる感じ。

 

本野櫻𩵋:ガチ考察すると、ネギは「葱坊主どこをふり向きても故郷」寺山修司とか、絵本にも「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズとかあるし、なんとなく「懐かしい」と結びつきそうな野菜かも。

 

郡司和斗:ワンピースガチ考察に負けないやつ来たやん。

 

本野櫻𩵋:ヘクタールはシャンクスの双子の兄弟だった?!

 

郡司和斗:色の見栄えもいいよね。緑、白、青が浮かぶ。

 

本野櫻𩵋:いやそうなのよね。視覚的に健康。

 

郡司和斗:ガチ考察の話に戻ると、感傷的なイメージに葱はわりと万能で合う感じしない?

 

本野櫻𩵋:会うよね、なんでかね。

 

郡司和斗:やっぱ料理でネギは万能だから……。そんなわけないけど。

 

本野櫻𩵋:くどいかもしれんが葱さらに掘ると、恐ろしいくらいそのまま店に並ぶやん。あれやっぱ葱って畑にあってもわかりやすいのもあるし、垂直に出た青いところが直線にながーく並んでるから、規則性あってなんか㌶ぽいのよね。測量もあんな感じの棒で測りそう。ネギの青いところみたいなやつ。

 

郡司和斗:葱の形状とヘクタールっていう面積の単位は確かに親和性ある。線と四角、数学っぽい感じで。

 

本野櫻𩵋:うんうん。そうね。

 

郡司和斗:次いくか

 

あなたより先に死にたしそののちのあなたの死後にふたたびを死ぬ

 

郡司和斗:これもやたら人気がある気がするけど、意味についてはどこまで汲めばいいかなあ。あなたより先に死にたしって欲望は理由次第ではそれなりに共感する。あなたの死を知りたくないから先に死にたいとか、遠回しに相手に長生きしてほしいことを伝えてるとか、色々と解釈は考えられるけど、まああんまり詰められない。んで、あなたの死後にふたたびを死ぬ、んだけど、最初はいわゆる「人間は二度死ぬ」的なことを言ってるのかと思った。でもそれだとあんまりおもしろくなくて、やっぱり本当に二回死ぬイメージを深めていったほうが良い感じがする。

 

本野櫻𩵋:成仏、的なものかなと思うよね。あるいはオタク的誇張表現の可能性もある。「ガチで三回は死んだ」的な文脈。

 

郡司和斗:気持ちがあふれちゃってる的なノリがどちらにしても共通してるかもしれんな。先に意味の話をしといてあれなんだけど、この歌はどっちかというとリズム面で採ったところがある。あなた-そののち、あなた-ふたたび、のテンポの繰り返しがハマってる。

 

本野櫻𩵋:やっぱ「そののちの」で加速する感は気持ちが良いよなあ

 

郡司和斗:そののちは速く、ふたたびはどっしり。また意味内容の話に戻るけど、なんか、死んだあと復活するのはあるあるだと思うんだけど(キリストとか)、死んだあと再死するのはそのifルートに突入した感じがしておもろい。

 

本野櫻𩵋:うわー、なかなかいい読みだな。キリストおもしろいね。いや、なんかねやっぱり安易な読みになっていってしまうのよね。死を見届けたくない取り残される悲しみもあるけど自分が死を看取りたい気持ちもあるみたいな。わりとストレートの読みだけど、他の誰にも看取られたくないみたいな独占欲がみえるのはすごいよかったな。郡司くんが詰めなかったポイントだけど。

 

郡司和斗:まあまずはその二律背反した欲望を読み取りますよね。

 

本野櫻𩵋:その上でキリストが出てくると読みも解釈も加速していいね。

 

郡司和斗:今言ってもらったやつは安易というよりか、読みの出発点な感じがするので、言葉にしてもらって良かった。すっとばした感あるので。

 

本野櫻𩵋:お、ならよかったなあ。つぎでいいかな?

 

郡司和斗:つぎええで。

 

糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ

 

本野櫻𩵋:糾弾が何かとかはよくて、「極彩色のしずけさ」ってほんとにすごいところ突いてきたなと。極彩色は、綺麗な反面毒々しくあって、しずけさに余韻が残る感じはとても的を得てると思う。

 

郡司和斗:極彩色のしずけさ、ってよく見つけたよねほんと。

 

本野櫻𩵋:しずけさ詠みたくなるのわかるけど陰陽の陽で持ってきたの驚きますね。

 

郡司和斗:糾弾って非難することだけど、字面的にモノホンの銃を連想できて、発砲後のしずけさのイメージとも重なってくる。陽の静けさ、わかる。

 

本野櫻𩵋:またいい読みしてるじゃん。いい読みしかできない病気だよもう。

 

郡司和斗:ありがとう。ふつうは陰で静けさを表現したくなっちゃうからな。

 

本野櫻𩵋:そうなのよね、しずけさは寂しさとかくすぐったい感じにしたくなっちゃうけど、意外と極彩色でもいけるんだよ。すげえなあ。

 

郡司和斗:解釈するときに糾弾を留保しておく場合、割と極彩色の話したらそれで終わるな。

 

本野櫻𩵋:糾弾は触れづらいわけじゃなくて糾弾であることが重要で、糾弾それ事態がなんであろうと極彩色の静けさがあれば成立してしまうのよね。

 

郡司和斗:糾弾の内容それ事態がなんでもいいのは俺も同じなんだけど、糾弾っていう行為に対する主体の判断はちょっと読みに行ってもええんかなとは思う。あれ? なんか桜魚さんと同じこと言ってるかもな。この歌、「なのだ」っていう終わり方がめっちゃ価値判断しているように感じるさせるんだけど、読めば読むほど糾弾のたやすさに対してどういうスタンスを取っているのかわからなくなるんよね。んでこの歌ではそこもおもしろいポイントだなと。「けれど」が論理の補助輪のようであんまりよくわからんのよね。まあ別にこういう負荷の作り方は短歌で珍しくはないけど、極彩色のイメージと相まって目眩がしてくる。トリップ感っていうのかな、そこも良さだなと。

 

本野櫻𩵋:うーんなるほどね、トリップ感ね。

 

郡司和斗:トリップてかなんか、一瞬風呂上がってくらってするやつかも。

 

本野櫻𩵋:それもうトリップなのよ。

 

白壁を這う枝の影かろうじてそこにわたしはいたのだけれど

 

郡司和斗:この歌集、何かをアピールするような短歌が目立つというか、目立ちすぎるんだけど、その中でこの歌はわりとふわっとしていて、ちょっと抜けている感じがいい。

 

本野櫻𩵋:うん。「白壁を這う枝の影」から「いたのだけど」はなんかテクニカルだね。モチーフの視点の移動が実体→影だから。「いたのだけれど」は読める。フィールド(壁)を見せてから枝をみたのに結局は影だったという。

 

郡司和斗:壁に枝の影が写っていて、そこに「わたし」が立ち寄ったか突っ立ってたかしてる。状況としては「なんかそういう経験したことあるかもな」くらいのこと。「かろうじて」にひねりがあって、「わたし」の存在がゆらいでくる。一読したときは実物の「わたし」がいると俺は解釈したけど、「わたし」もある種影のような存在に思える。「かろうじて」が倒置法みたいに上の句にかかってる感じも少しだけして、「枝の影」と「わたし」の像が重なり合うような印象も持つなと。

 

本野櫻𩵋:ていね〜、いいね、わかる。「かろうじて」たしかにかなりクリティカルにあるな。「かろうじて」読み取れてなかったけどかなりいいな。

 

郡司和斗:なんか、個人的にだけど「かろうじてそこにわたしはいたのだけれど」って感覚は日々日常を生きていてずっとある。下の句がクリティカルだからこそ、わりかしささやかな上の句が効くなあ……。あと言いさし。一首の終わり方にちょっと重みが出る。それによって「わたし」の陰影もまた見えてくるなあと。好み別れそうだけど「這う」もおもしろい。影はふつう二次元だけど、這うと言われると3cmくらい浮いてきている感じがある。あとこれは伝わるか微妙なんだけど、自分の視野の後ろにも空間を描いているところも良いな。壁に枝の影が写っていて、歌の中のカメラはそこを捉えているんだけど、カメラの斜め後ろあたりに枝本体の気配を察する。レイヤーが重層的。

 

本野櫻𩵋:うーんなるほど、言われてなんとなく理解できるな。レイヤーが重層的なのはほんとにそうやね。やっぱり「いたのだけれど」の滲み出る悔いみたいな部分と呼応するな。あるいは、いたはずだった、気づいたらいなかった...?みたいなのでもいいね。景にも精神にも虚構があるよね。

 

郡司和斗:確かに、このまま消えてしまいそうな、気づいたらいなくなってしまいそうな雰囲気。そこ詳しく聞きたいな。

 

本野櫻𩵋:そのままの意味で、景もパキッと決まってるわけじゃなくてそれこそ重層なレイヤーがある状態って複雑で不安定でもあるから虚構ぽい、影の概念とか、精神でも、そこにいた...?いたはずなんだど...という不確証な感覚がある。すると景にも精神にも虚構があるよねってはなし。虚構がわるかったか...?なんだろうどちらも不安定だよねというか。

 

郡司和斗:不安定さ、か、しっくりきた。話したいところは話せたな。次いこか。

 

横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所

 

本野櫻𩵋:顔の歌がべらぼうにうまい。棺に入った状態では正面の顔を覗き込むから、という読みよりは、横顔が美しいのは生きてるからだ、という読みにしたいんだけど。まず、横顔「というのは」と客観性を持たせて主観と距離を置いたのもテクい。けど「しかない」と強いのもまたいいバランス。

 

顔の裏で顔のミイラが待っている 眉剃った夜は水を欲しがる

 

本野櫻𩵋:これも顔の歌ですきだった。ほんとに関連性があるかはわからないけど、なんとなく似てる気がする。

 

郡司和斗:金木犀の歌については、やっぱまずは棺のイメージを想起したな。その後に散歩とかしてる人の横顔が浮かんできて、金木犀が降ってくる景に繋がった。別に死者にも横顔はあるんだけど、言論空間に流通してる死者のイメージをコントロールするのがちょっとうますぎますよね。一読して「ああ確かに……」って納得する。死者って正面向きがちやん。棺もそうだし、遺影もそうだし。報道するときとかもふつう正面の写真。「というのは」と「しかなくて」のバランスは、うん、すごい。

 

郡司和斗:ミイラの歌、実はあんまりよく良さをわかってないんだけど、上の句と下の句のつながりどう読んだ? ミイラ→干からびてる→水欲しがる くらいの連想?

 

本野櫻𩵋:これちょっと言語化する能力なくて紐つけて話せない感じするから普通に好きな顔の歌ってことで読むわ。一旦仕切り直して最初から読むね。今言ってもらった金木犀は読みの出発点な感じがするので、言葉にしてもらって良かった。ふつうに素で読みの段取り踏むの忘れてた。言語空間に流通している死者のイメージもそうなんだけど、やっぱり『ヘクタール』の短歌は文章として読めるバランスの良さがあるのよね。短歌というより、短い文章という感じ。それはこの歌では「決めつけ」と「在るもの」のバランスなんだけど、詠み手の自分勝手と、実際に見えてくるもののバランスが常に最善を考えられて配置されてるよね。という意味では、他の顔の歌の

 

顔の裏で顔のミイラが待っている 眉剃った夜は水を欲しがる

 

とかも、バランス良いのよね。この歌はそのまま読めるんだけど、水を欲しがるあたりが絶妙で、ちょっと言語化難しいんだけど「逆」な感じするのよね。眉剃ると見た目としてはミイラに近づくんだけど、顔の裏のミイラは水を欲しがっているって、要は生体に戻りたがってるわけだよね。こっちはミイラに近づくんだけどミイラはこっちに近づいてくる。なんていうかなこのバランス。ぜんぶこれ。散文として良いっていうのは語弊があるといけない。短歌としてすばらしいという話の延長線上のはなしね。

 

郡司和斗:あー、おもしろいイメージやな。歌の中で主体と対象が互いに引き寄せられる感じね。てか桜魚さんが大森さんの短歌を読んで散文寄りに捉えるの意外だった。

 

本野櫻𩵋:こういう主観と客観のバランスみたいなのは結構散文のほうが気付きがあるよ。最近よんでる人で、散文じゃないんだけど、詩人の朝吹亮二さん、自分の中ではヘクタールと共鳴してた。やっぱり大森さんの短歌は韻律を強く感じるというよりかは内容と構造で魅せてくる感じがする。朝吹さんもそう。そして散文はやっぱりそういうものだから、だからわりと散文よりに捉えたくなる。というだけの話しなんだけども。

 

郡司和斗:朝吹亮二いいよね。詩集読み返すかあ。なんかあの年代の詩人の作品は割とどれも構造とかコンセプトが魅力だよね。んで、大森静佳との重なりに関しては、まあまあまあそんな気がしなくともない、みたいな。

 

本野櫻𩵋:よみかえして。

 

郡司和斗:大森さんって短歌マッピングでいくと意味内容派というより抽象とか身体感覚とか言葉とか韻律に力点を置いてる人だと思ってたけど、文芸全体で見ると比較的意味内容で魅せる人なのかもな。知らんけど。構造で魅せるはわかる。基本的に現代文芸でおもしろい作品みんな構造で魅せてくるからな。散文が傾向として内容と構造で魅せる方向に寄りがちなのもわかる。どうしても他ジャンルと比較して文章としてまとまりができちゃうもんね。

 

本野櫻𩵋:短歌マッピングではその位置なのか!

 

郡司和斗:尖ってる若手だけじゃなくておじいちゃんおばあちゃんの歌人とか全部入れるとね……たぶん。

 

本野櫻𩵋:いや、わからなくはないよ。韻律も十分素敵です。

 

何年も泣いていないというきみが撮った桜のどれも逆光

 

郡司和斗:あんまり語ることもないんだけど、他愛もなさがいいなと。何年も泣いていないきみに対してどういう思いがあるんだろう。もし友達とか恋人に何年も泣いていないって言われたら、俺なら本当にほんのちょっとだけ切ない気持ちになるかなあ。んで撮った桜がどれも逆光で、綺麗には写らなかったわけだけど、光で見えなくなっている桜への隔たりと、きみとの距離感が重なってくる印象を持ちました。歌集の中でもあんまり気負ってない感じがして、そこも好みかな。

 

本野櫻𩵋:うーん、その印象すごくいいね。僕はね、逆光の桜ってそんなに悪くなさそうでむしろ綺麗なんじゃないかなと思うね。蝙蝠傘に小さい穴開けると擬似プラネタリウムになる要領で、桜から光が漏れてる感じはちょい涙ぽくもあるね。

 

郡司和斗:あ、そこは俺も同じ。ここでいう「綺麗」はカレンダー写真的な一般的な写りの整い具合のつもりだった。逆光の方がむしろ綺麗ってのはあると思う。「葉桜の中の無数の空さわぐ」篠原梵、じゃないけれど、桜越しの向こう側に光源があって、きらきら光がこちら側に漏れる感じ。

 

本野櫻𩵋:はいはい。他愛なさが素朴な良さがあるな。大森さんの短歌、ヘクタールだけしかよんでないから偉そうなこといえんけど、なんかこっちにくる(短歌を読む)時点ですでにバランスがいいから、絶妙に深めの考察が常に気持ちいい感じがするな。

 

郡司和斗:一首のなかで意味を回収しきらないように作ってると思うんだけど、かといってシュルレアリスムとかオートマティスムみたいに辻褄が合わないようにイメージを繋いでいるわけじゃないから、読んでいて絶妙に何かを掴めた感じに読者をさせるなと思う。

 

本野櫻𩵋:本物じゃん

 

郡司和斗:本物だったらいいね。次ええよ。

 

祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場

 

本野櫻𩵋:なんかやっぱりミイラの時も話したことになっちゃうんだけど、自分と自分の皮みたいな感覚が鋭くあるよなあという思い。「無表情を褒められるとき眉間だけ破れたはなびらみたいに寒い」これなんかあわせて読んじゃうと面白かったりして。眉とか眉間とか、そこらへんが大森さんのネザーゲートなのかなっていう。

 

郡司和斗:評でネザーゲートはじめて聞いたわ。ひろく身体感覚一般が一首の跳躍を可能にする詩学だとは思う。大森さんの歌はどの歌も一様な解釈を拒む側面があるけれど、身体がネザーゲートになってくれているおかげで不思議とついていけちゃうのよね。祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場、をまず読んでいくか。祈るときは確かに眉間あたりに意識が集中する感じがするから、連想としてはそこまで負荷なくつなげられる。そこ(眉間)にナニカが露出してナニカを「わたし」と呼ぶってところに謎の迫力があるよね。眉間が窓になって小さい人がこちらを覗き込んでいるみたい。最後を「夜の踊り場」で落とすのは若干詩的既製品感あるけど、この静けさのなかでこそ四句目までのちょっとギョッとする異空間が際立つような気もする。

 

本野櫻𩵋:すごいなと思ったのは、「露出」という言葉選びで、例えば「現れるもの」とか言うこともできるんだけど、露出という若干淡白で文書的な語彙が選択されたことに、祈りの臭みを消していると言うか、祈りが若干軽薄になっていくようなものを感じるのよね。露出という言葉のイメージが祈りにかぶさってくると、祈りがスピリチュアルなものと離れていく感じがする。そして露出しているもの自体を私と呼ぶと言うことで余計にそれが強化されるという。

 

郡司和斗:あ、すげえ、そうや。露出って言葉、日常生活ではニュースでしか聞かないしね。祈りが持つ毒の部分に自覚的。

 

無表情を褒められるとき眉間だけ破れたはなびらみたいに寒い

 

これも、はなびらの良さを殺さず、それでいてはなびらって言葉が持つ過剰なエモさを「破れた」「寒い」の言葉回しで上手く脱臭していると思った。

 

本野櫻𩵋:ナイス。無表情を誉められるって言うのも若干茶化されてるかんじあるよなあ。これbacknumberのはなびら思い出したのよな。歌の内容とは全然違うんだけど、はなびらのさみしさみたいな文脈で。……無表情を褒められるをもうちょっと言及したいんだけど、茶化しの文脈を置いといて読むと。すごい一生懸命やったことがあんまり評価されないのに全然力抜いたことがすごい評価されることってあるよねみたいなのがむしろファースト読みかなと言う感もあり。無表情を褒められるも無表情であるから何かしているわけではないので、そこを褒められてしまったことへの切なさというか、ほろほろと感情が崩れ落ちて来る感じはたしかにはなびらと呼応するし、そして眉間という場所も確かにわかる気がするのよね。眉間ってなんかね、熱を持つ感じがある。

 

郡司和斗:皮肉っぽさもあるよね。無表情を褒めるって。リフレーミングみたいな前向きさはあまりない。そもそも人の表情に褒めるもクソもないと思うし。どこから目線やねんと。

 

本野櫻𩵋:そうね。確かにあんま思わんかったけどルッキズム的な文脈でもあるか。

 

郡司和斗:ルッキズムかどうかはわからんけど、表情ってその範疇なんかな?

 

本野櫻𩵋:やっぱ表情ってところが大事よな、表情ってつくるものやん。だから、無表情を褒められるっていうことのむなしいかんじなんだよね。ルッキズムかどうかわからんけどやっぱそれね。ちなみにわいは無表情だと機嫌悪い?って聞かれる。

 

郡司和斗:笑。普段の機嫌が良すぎる説あるな。

 

本野櫻𩵋:普段おしゃべりな代償で無表情を捨てなければならないの陽気なモンスターじゃん。

 

郡司和斗:俺は普段からポーカーフェイスだから何も言われんよ笑。悲しい陽気なモンスターか。

 

本野櫻𩵋:ぜったい言われないだろうなあ、闇が深すぎる。

 

郡司和斗:いやでもね。自語りにズレるけど、ふつうに子供にはビビられるわ。無表情やと。

 

本野櫻𩵋:何考えてるかわからんくて怖いんよ。子供はめっちゃ表情みるしな。

 

郡司和斗:だからこそ、「みんな俺のことビビってるでしょ!」って言うと割とウケるという笑。

 

本野櫻𩵋:(笑笑)この間Twitterでみた赤ちゃんの実験で、楽しく遊んでる母親が急に真顔になったらどうなるかっていうやつやってて。最初は気を惹きつけようと笑ったりがんばるんやけどそのうち泣き出すんよな。

 

郡司和斗:赤ちゃんのやつ気になる。後で見よ。

 

水中から湖面をみあげていたような春、なまなまと二の腕太る

 

郡司和斗:水中から水面をみあげるイメージはアニメのOPとかでありそうで、まあわかる。てかアニメ云々言わなくても、誰しも一度くらいは水泳の授業で似たような情景を経験したことあるだろうよ。そういう感じの春だなあと主体は思っていると。春って気候的には爽やかだけど、心理的にはざわつくことも多くて、その中間のぬるぬるした感傷を上の句からは読み取った。憧憬、息苦しさ、眩しさ、いろいろ混ざった感じね。そこに取り合わせとして「二の腕太る」が来るのが好きやなあ。二の腕をチョイスが妙に味ある。日本って太ることに否定的な価値観がそこそこ規範化してると思うんやけど、あんまりこの歌ではその印象はないね。むしろ迫真さを以って二の腕が太ってくる。上の句は回想っぽくて、下の句は今の話っぽいんだけど、どうだろう、「水中から湖面をみあげていたような春、その春になまなまと二の腕が太った」くらいで解釈してええんかな。

 

本野櫻𩵋:なまなまと の措辞がなかなか言えないよね。春の霞、朧みたいなところは俳句的でもあるなと思うな。ただ、気候的な部分だけじゃなくて心理的なアプローチもあるのが絶妙なポイントよね。

 

郡司和斗:「春、なまなまと」の韻律のギア変速もおもしろい。一字空けだともっとゆっくりすると思うんだけど、句読点だと前かがみにつっかえた感じがして、春の「春ッ」みたいな。俳句っぽい話でいくと、「春」と「太る」って若干近い気がするんだけど、やっぱ「二の腕」のチョイスが絶妙だと思うんよなあ。

 

本野櫻𩵋:春ッwwwウケるなその評。二の腕いいねえ。なんかあれ思い出すね津川絵里子さんの自転車と繋がる腕の句。

 

郡司和斗:あ、懐かしい。『夜の水平線』回はこちら

【第一回】津川絵理子句集『夜の水平線』 - 詩歌の焚火

↓ちな句は、

自転車とつながる腕夏はじめ/絵里子

 

郡司和斗:大森さんの歌も、二の腕を媒介として春とつながっているのかね。身体と季節の連続性というか連結って、生き物ほぼすべてが持っている基盤だから(ほら、みんな季節の変わり目で風邪ひくし)、そこが読者がこの歌に体重を預けられる要素のひとつになっているなと思います。

 

本野櫻𩵋:まちがいない。今回いい評してくれるから同意しかしてないな。

 

郡司和斗:短歌全体でいうとそういう作り方って個人的には食傷ぎみなんだけど、それでも読ませてくるからヘクタールすごいな、と感じますね。

 

録音に拍手は残るもういないひとたちの手の熱いさざなみ

 

本野櫻𩵋:最後やね。実は焚火創刊号で取り上げた堀本裕樹『一粟』回に

 

レコードの古き拍手や秋の夜

 

という句があって、これは同じテーマで俳句と短歌の違う良さが出てるからひきました。これは曲の話をしたいんだけど、俳句の方はしっとりと例えば僕はジャズとかを想像するんだけど、flymetothemoonのフランクシナトラとかね。短歌の方はロックバンドとかbeetlesとかを想像するんよね。それは「熱いさざなみ」と、短歌だからこそ言えるというか、いや逆に俳句だといえないディティールなのかもしれないけど、まさにそこにあるなって思ってすこし感動したのよね。

 

郡司和斗:おれは逆に俳句なら「熱いさざなみ」って言わなくていいことに感動している。堀本句はまあジャズやろな。句以外の本人情報を加味しすぎて解釈しているけども。大森さんの短歌は、そうねー、なんか観客が熱狂してる雰囲気伝わってくるから、確かにロックとかそっち系な気がする! レコード句についてはクラシカルな雰囲気がしみじみいいつすね。

 

本野櫻𩵋:そうなのよね、となるとやっぱりレコードのニュートラルのイメージってジャズなんやな。

 

郡司和斗:それか古い日本の歌謡曲。ショーを録音したやつみたいな。歌にもどると、「もういないひとたち」でどのくらいの前の年代かざっくりイメージしやすくなってるのが親切だなーと思う。鑑賞者側に思いが寄っていってるのも特徴というか、名もなき側へ肩入れっぽい感情ってありますよね。共感するかは別として、あるなーと。

 

本野櫻𩵋:録音に拍手は残る もういない の流れが気持ちよくていい。

 

郡司和斗:他人事のようで淡い感覚が続いていくのかと思いきや、「熱いさざなみ」で当時の匂いが思い起こされる感じというか、歌の奥にグッと寄っていくところ。

 

本野櫻𩵋:それも特徴やね。やっぱ熱狂は観客が作り出すからね。

 

郡司和斗:私からはそんなもんかな。

 

本野櫻𩵋:わいも以上や。

 

郡司和斗:じゃさいご。

 

ドアよりも大きくなって眠りたいいつかあなたがいなくなる冬

 

郡司和斗:眠る短歌すきなんよね。俺基本。ほら、俺ロングスリーパーだから。眠るとき身体がデカくなる発想、これあるなあ。デカくなるってか身体がふやけてペターンってなるっていうか。ドアの大きさだけじゃなくて平たい感じもわかるわ。んでもってこれは願望であって叶っているかはわからないんよね。いつかあなたがいなくなる冬に、ドアよりも大きくなって眠りたいわけでね。あなたがいなくなるのは、死ぬって意味なのか別れることなのかはわからないけど、どっちにしても大きな喪失やね。ドアがなんていうかな、「あなた」と「わたし」を繋ぐものであると同時に隔てるものでもある気がするな。それでここがこの歌の不思議さなんだけど、ドアになりたいじゃなくてドアよりも大きくなりたいなんだよね。「ドアになりたい」より「ドアよりも大きくなって〜たい」のほうが不思議な欲望の感じがして、主体の思考の深みを見させられたと思った。ドアと同化しつつでもドアではないというねじり。

 

本野櫻𩵋:ドアよりも大きくなるって身体感覚として“届きそう“っていう大きさなのがよいのよな。「いつかあなたがいなくなる冬」もそうなってしまう可能性があるという二つのことが絶妙に親和性がある。深読みシステム発動すると、あなたが出ていくときのドアから出ていけないようになりたいみたいな意味にも取れそうだし。そして「いなくなる冬」と断言しているのもどこか切ない。

 

郡司和斗:そうなの、届きそう感。スカイツリーより大きくなって、だと損なわれる何かがある、この歌には。てか深読みシステム発動してニュータイプになってるな。「あなたが先にいなくなること」と「いなくなるとしたら冬であること」が既に確定しているっぽいの確かにおもろい。「いつか」と「今」の時間が混ざり合うような感じ。あるいは予言、予感。詩歌の呪術っぽさも出ているようや。

 

本野櫻𩵋:「あなたが先にいなくなること」が確定しているなら寝てる場合じゃないんだよね。せめてドアより大きくなりたいみたいなね。詩歌の呪術わかるね。呪術廻戦詩歌編だね。

 

郡司和斗:まあそれか、私よりも先に「あなた」がいなくなる、と私が認識しているという解釈よりも、主体が少し高い次元から「あなた」の生を超越的に俯瞰していると捉えた方がしっくりくるか。

 

本野櫻𩵋:なるほどね。ん? それは気配がしているってことじゃなく?ってあなたがいなくなる気配がしているってこと?

 

郡司和斗:俺は勝手に意味をおぎなって「いつかあなたがいなくなる冬」をあなたが私より先に死ぬか失踪するかしていなくなるって解釈しちゃったんだけど、それだとちょっとズレるなと今気づいたの。

 

本野櫻𩵋:ほうほう

 

郡司和斗:確定はぜんぜんしてなかった。

 

本野櫻𩵋:たしかにね、確定はしてないね、そういうことね。俯瞰的な意識ってことに言い換えたいね。

 

郡司和斗:死別とか離婚みたいなリアリティの次元で下の句を読んで味わうより、その視点の構え方に言及したほうが良かったな、と思い返したという、やつ。

 

本野櫻𩵋:いや、それはあれか、あなたが近い将来いなくなると認識しているとドアよりも大きくなって眠るということと繋がりすぎちゃうということか。こうしたほうが余裕があるというか。

 

郡司和斗:意味的な話では、そうね。

 

本野櫻𩵋:僕がうまく汲めてない可能性あるけど上の句と下の句のバランスが良いということは非常によくわかった。

 

郡司和斗:いやいや、聞いてくれてありがとう。まあ俯瞰的な意識って桜魚さんが言ってくれた感じです。語り手がどの地平に立っているのか考えたほうが、最終的に意味の話をするとしても建設的やなと思ったっつぅー。こんなもんすかね。今回は。

 

本野櫻𩵋:短歌読むのいまだに慣れなくて難しいけど、少しずつ気づきがあって楽しいねえ。次回も楽しみです!

 

郡司和斗:空中戦も好きだけどできる限り一つの作品をじっくり読むやつを今後もやりたい。お疲れしたぁ!