【番外編】石松佳『針葉樹林』

初出:「焚火」創刊号

在庫切れかつそれなりの日々が過ぎたので、たぶんずっと無料公開します。

 

【参加者】

本野(塚本)櫻𩵋・郡司和斗・安里琉太

 

【気になった詩】

みんな:「田園」
本野櫻𩵋:「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」
郡司和斗:「雪」
安里琉太:「絵の中の美濃吉」

 

【詩の引用】※許可あり

田園

筆談、そして鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日、手を伸ばしてみたら「あ、」と不意に声が漏れた。電話帳があいうえお順だから、並ぶひとがいて、波の細やかな起伏がずっと遠いところまで続いている。整列。抜けるような胸の白さ、そこを透過して、夜、初夏の水田に一陣の風が吹きとおる。いつだったか。fとビル街の真中にあるカフェのテラス席で食事をしたとき、われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。fは、「いまのなに」と言っただけでさほど興味もなさそうにただ夏雲の行方を眺めていて、わたしはそんなときのfの横顔とか、グラスの水滴とかが好きで、そのあとの急な夕立を今でも鮮明に覚えている。

遠くの方で鈴が鳴ることと、太陽が義手のように指し示していること。fは透明な傘を持って泥濘んだ地面を繰り返しびゅっ、びゅっと突き刺す。その遊びの痕跡がわたしたちをより細く険しい道へと至らせる。こんなにも、拙い呼吸で。自転車に乗った男子高校生たちが、手を繋いでいる。胸のなかに手を入れたらとても夭い鋏が、小ぶりなテーブルに置かれていて、まるで何かを落として、割ってしまったときの気分だ。「おはようございます。」そして大声でお礼を言われて、顔を上げたら、が対岸の選挙カーに向かって手を振っていた。一面が窓ガラスだった、休日の朝、その鮮度。犬といっしょに畦道を駆けてゆく光景が、胸に、一途に射し込んで。たくさんの帆が上がっている。田園。

わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことがなかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。水浴の午後、ふと金田一少年に手紙を書きたくなる。織りなす海の絵を添えて、そう、そこにパンタグラフを描き入れる、峡谷へと向かう、とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げてゆく。あいして、います。気がつけば浴槽が水でいっぱいになっていて、ひとごろしの睫毛が過ぎ去ってゆく田園へと、しずかに向けられる。金魚鉢には金魚が数匹、泳いでいて、そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、

 

ハイウォーターズに住む双子たち

ハイ・ウォーターズに住む双子たちのまわりの酸素は薄 く、彼らはなるべく呼吸を浅くして、薄眼で表層を泳ぐ ように暮らしていた。彼らはハイ・ウォーターズに昔か ら伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方 が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。

彼らは一組の解き難い知恵の輪のように暮らした。遠くで雷が鳴った日、彼らは山の稜線が音に先立って何度も発光するのを見て、それをうつくしいお墓だと思った。 そして、鰈という名の魚を図鑑で見たときにとても自然に微笑んだ。その夜、彼らは手話でぎこちなく、でも確かに互いの心を愛撫した。

喋らない代わりに彼らは portrait を描き合った。描き合う彼らの姿はもっとも尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられていなかったからか、なんの感情の前触れもなく、わたしはたとえば涼しい風が 吹き抜けたときに涙を流していることがある。言葉を棄てた彼らは泉のように自閉していたにも関わらず。

ハイ・ウォーターズでは、太陽がラヴ・ソングのように 降り注ぐ日が一日だけある。その日だけは、鉱物が子宮 のように暖められ、季節が、時の一点に向かって敬虔に 挙手をする。水面近くを飛ぶ鳥たちの、限られた睡眠時 間のなかで、彼らは半跡を組み自らの肌を日に焼いた。

「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている。たとえば夏至前の、夕餉を準備するとき、透明な蟬が一匹、糸のように鳴く。その鳴き声に背中では気付いていながらも、静かに食卓を調えてゆく。この食卓さえもがいつ透明になってもいいというように。そして空のコップに、 氷を入れる。そういう風にしてわたしたちは、いつの間にか半袖の服を着ているのだった。

 

skin
風邪を引いても、
背中を撫でてやれば大丈夫なはずだ
それでもあなたの両目は
笊として雪を透視していて
生まれてから一度も
食事をしたことがない

知恵の輪をほどいて
雪は一斤ずつ降り積もってゆく
描いた絵が
少しずつわたしに似てゆくことに
ずっと前から気づいていた

あなたの両の目は
物の奥を見ながら
ときには
卓の上を正視する
「この百合根は
 性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」

川べりの真昼に見とれて
忘れ物をしてしまった
両の手を濯ぐときのつめたさよ
冬の光を浴びた

小鳥たちの後頭
布きれが乾きやすくて
あなたは雪を隠すのだ

交差点で傘を差したまま
雪を見上げる人々がいる
わたしには彼らが
息を止めているようにも見える
息を吹きかければ
硝子窓が曇る
生きることは衣服のように白い

 

絵の中の美濃吉
たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院の鏡のように並んで走り抜ける。売れ残った林檎。瑞々しい陶片を拾うために美濃吉は労働をして過ごした。玻璃質の冷涼な大気の中で、美濃吉の腎臓はとく、とく、と健やかに水を受け入れていた。

盥に映る空が、舟のように揺れていた。美濃吉はむかし、川沿いを走る馬を見たことがある。正確に言えば、 その馬の精神だけを見たことがある。馬の肩からは白く 光る骨が突き出ていたからか、貝を食べる人々はそれを嫌った。すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。

井戸が眩暈をした朝があった。美濃吉は昔から人間より も事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪摘んで、その闇に投げ落とした。闇からは美濃吉を呼ぶ声が絶えなかった。美濃吉はほほえんで、遠くの山々に向かって一礼をした。彼は生まれつき音が聴こえなかったのである。

完璧な月が出たある晩、美濃吉は月明かりの中でまたあ の馬を見た。馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には雪が結晶する。その景は明らかに厳しい冬の到来を伝えていたので、夜風に磨いた草は妹のように泣いた。

美濃吉が行く地獄とは、たとえば理容院の二重らせんの ことだ。それはたくさんの折鶴の首でできた地獄である。そこでは、無人駅の枕木がとろとろと睡りについていて、わたしは過ぎてゆく秋の車窓のひとつひとつに密告をする。口をつく言葉の、その弱々しい悪意に促されて。

途絶えがちな手記のように、美濃吉はよく夢を見た。入水するとき片方の手は凧を持ちながら、もう片方は花瓶 に活けられた花の方へと伸ばす。整然と並べられた無数 の椅子の脚。陽光。息が、できない。彼が思わず口を開 け「あ、」と漏らしたときの未必の故意の、一幅の中に吹き抜ける風の。

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「田園」
郡司:「焚火」同人の郡司和斗です。今日は安里さんと一緒に『針葉樹林』読むことができるということで、とても嬉しく思っています。よろしくお願いします。

本野:蒼海俳句会に入っています。本野櫻𩵋です。僕は同人をやるのが初めてなので、「焚火」をすごく楽しみにしています。今回の企画では、ふつうの読書会とはまた違って、脱線しつついろんな話をできればと良いなと思っています。スペシャルなゲストの安里さん、郡司くん、よろしくお願いします!

安里:あらためての自己紹介をすると変に照れますね(笑)。今回はお誘いいただきありがとうございます。「焚火」創刊号の読書会に入れて光栄です。「銀化」、「群青」、「滸」に所属しています。安里琉太と申します。よろしくお願いします。

郡司:まずは全体的な感想からいきますか。前回の打ち合わせ(飲み会)のときにも少し話しましたが、『針葉樹林』は現代詩を読んだことない人に逆に薦めやすい一冊なのではないかなと思っています。日常的な言語操作からわかりやすく離れていて、詩的なレトリックをがんがん回している。あと、一篇ごとに詩がとても自立している印象があります。「田園」のf、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」の双子たち、「絵の中の美濃吉」の美濃吉など、〈私〉以外の物事について説話的に語る作品が多くて、阿部公房の『砂の女』ではないですが、世界観の構築が上手い作品が多いなと思いました。本野さんはどのような感じですか。

本野:そうですね。他の人も言っていることだけど、比喩がおもしろい詩集ですよね。詩集の栞で松下育男さんが「喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくるという均等な世界になっている。」と書いているけれど、次の世界に主体の視点が気づいたら移ってしまうのはすごくアクロバティックだと思う。前後の言葉のバランスもすごくちょうどいい距離感にあって、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」や「絵の中の美濃吉」とかは特にそのバランスが良い。っていうのは一篇の中でころころ話は変わるんだけど、空気感が同じで、というか構成力って言えばいいのかな。えっと、それがなんというか……ごめん見切り発車で喋っていて上手く言葉が。

郡司:いや、わかるわかる。比喩の連続で語りの内容はスライドしていくんだけど、語彙や文体レベルでは統一感があるから。

本野:そうそう、それだね。統一感。僕が選んだ「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」はじめ、言葉の統率力がすごくある。ある程度長い物を書いているとふつうはブレて来るじゃん。それがなくて、言葉のカードプールが決まっている感じというか、作者の中でこうして書く、と明確にある感じがする。一篇一篇の詩は日本的だったり西洋的だったり日常的だったり幻想的だったり離れて見えるんだけど、一冊通して読んで感じる空気感は同じで、与えられる印象が統一されている。だから現代詩を読んだことがない人にもとっつきやすそうだと感じるのかもしれない。

郡司:では次に安里さん、ざっくりで良いので全体の感想を伺っても良いですか。

安里:はい、本当にざっくりなんですけれど、初めて読んだ時も良いなと思ったし、今回あらためて読み返してみてもあたらしく良いなあと思わされる点がありました。お二人も仰っていたようにある意味で読みやすくて、もちろん比喩は難解…難解と言うのはこの一冊の営為に対してはあ適切な評という感じがしませんね。「読解」という姿勢で読むと苦しむ人もいるかもしれませんが、ただ構成としては読みやすいい集だなあという印象を持ちます。始まりに「田園」に置いたことで、「ここから行くんだ」という意思の表明みたいなものが思われて、この詩集のベクトルをきちんと定めた感じがある。頻出するモチーフがあって、こうしたモチーフに対するイメージが読み進める中で響きあってくる。「田園」から始まって詩集の真ん中あたりまで行くと「梨を四つに」があって、このあたりは読みやすい。中のつなぎ方というとちょっと変だけれど、読みやすい流れができていると思います。詩集の最後の方、「浚渫」や「クウォーターサイレンハウスで三日間を過ごした」等は、前半のレトリックの重量感がある詩よりもずっと読みやすい。正攻法とまでは言わないけど、読者も入っていきやすいですよね。全体を通して変遷しながらなんだけど、楔を打つところではきちんと打ってくる印象です。それで、これは今更ながらのことかもしれませんが、やはり言葉を書いているという意識で詩集が編まれていると思いました。「田園」は特にそれを感じます。全体的に「馬」とか「鍵」とか、ともすればモダンなモチーフがよく使われるんですが、それらの言葉が身をよじりながら言葉の理屈をすり抜けていくところがあって、そこに古びていない輝きが宿る感じがあって新しく思える。読み味が良い。

郡司:いやー、初手から良い評ですね。では「田園」の話からしていきますか。

本野:みんなについていけるように沢山メモってきたよ(笑)。

安里:一回朗読しますか。

郡司・本野:あ! いいですね、僕、読んでみます。
(本野が「田園」を朗読する)

郡司:え……いいね、声に出すの。詩の界隈で朗読が盛んな理由がわかるわ。

本野:うん、思った(笑)。気持ちいいのよ、口が。

郡司:句読点の効いている/効いていないとか読み上げて初めてわかる部分も多いね。

郡司:安里さんの言う通り、「田園」はこの詩集の選手代表の感がありますね。冒頭が「筆談。そして鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日」と、いきなりオモシロ比喩が出てくるわけですが、これが一種の宣言ですよね。俺の武器はこれなんだぞ、みたいな。ドヤ顔ぎみに武器を使ってきて、読者にまずは方向性を示す。「田園」の中で「f」が登場しますが、こうした抽象化され記号化された他者は他の詩の中でもいくらか登場します。そうした技を「田園」で先に見せておくのも上手いですよね。さっそくもう具体的なセンテンスの話をしますか。僕が「田園」を読んで中心になるなと思ったのは、三連目「わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことがなかった。鵺に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。微笑のような日々を、すやすやと送ること。」ですね。タイトルの「田園」がここで出てきて、この詩一篇、もしくは詩集全体に対して書いているのかなと。「どれも等しく苦しい」んだけど、「微笑のような日々すやすやと送」っている。この「微笑のような日々」が、要はこれから詩集で展開される世界な感じがする。本野さんは、どうですか。

本野:テーブルの下に犬がくる場面がまずおもしろかったかな。

郡司:「われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。」のところね。

本野:そう、あんま深く触れないんだよね。「fは「いまのなに」と言っただけでさほど興味もなさそうにただ夏雲の行方を眺めていて、」って繋がっていて、「今のなに」とは言及されるんだけど、それこそ走り抜ける犬くらいさらっと処理される。俳句やっているとどうしても季語を見ちゃうんだけど、この詩集の中だと季節の言葉が何かの起点に使われていることが多い気がしますね。例えば「夏雲の行方を眺めていて、」とある、夏雲という具体性を帯びたでかい景色に読者の意識がもっていかれちゃって、犬が来たことを忘れてしまうんだよね。変な状況なんだけど、それ以上に夏雲ってでかくてノスタルジックだから犬の匂いを残さないで次の文章をぐいぐい読まされてしまう。季語の想像しやすさ、身近さをを活かしたこの使い方はおもしろいなと思った。もし自分が文章の中で季節の言葉を使おうと思ったら、やっぱりそこを主軸にしてしまうんだけど、「田園」では臭み消しみたいな役割になっていて、そこが自分の感覚とは違っていて好きだなと。

本野:前後してしまうんだけど、詩の全体で気になったこともあって、「電話帳があいうえお順だから、並ぶひとがいて、波の細やかな起伏がずっと遠いところまで続いている。整列。」を最たる部位として、「規則性」という指摘ができそう。そもそも田園自体が規則性のあるものじゃん、区画があって碁盤の目になっている。そういう並んでいるものを見ていきたい詩なのかなと思った。金田一少年の「金田一」は線対象だし「田」も字面単位で寄せてきてるよね。

郡司:初手からギアあげてきたね(笑)。

本野:喋り出したら止まらなくなってしまった。

安里:ハードル上がってしまって困ったな(笑)。そうですね。一行目から正しく「書くことで伝えること」である「筆談」という言葉から始まって、そのあと「鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日、」と続くわけです。フロイトなんかを思うと、鏡と書くこととは文学的に示唆深いところがあります。「鏡の中が偶然水曜日だった」、「水曜日」の「水」の字から連想がいって透過性を思わせられた。そのあと、「手を伸ばしてみたら『、あ』と不意に声が漏れた。」というふうに声が出て来る。声よりも書くことが先にでてきて、しかもそれは「あ、」ではなくて「、あ」だという。そういう言葉の位置づけから入るんですね。そのあと本野さんが仰ったような、ある種の規則性が見えて来る。この辺が最初に郡司さんが仰っていたレトリックっぽいところだと思っていて、「並ぶひとがいて、」のところは、実際の景として人が並んでいるのか、電話帳の人が並んでいるのか。ねじれていて、「波の細やかな起伏」が出てくるのかなと思いましたね。詩のスタンスとして思われたことで、例えば、入沢康夫は『詩の構造についての覚え書』の中で「詩は表現ではない」ということを述べていますが、そういう感じがする。あるいは、池上嘉彦は『言葉の詩学』の初めの方で、「言語は伝達すべき思想や事柄を表現し伝達する手段である」というのは一般的な言語の定義として間違っていないけれど、でも、これでは言語はあくまで手段として低位にすえられてしまう。むしろ、現代における言語の新しい認識は、言葉が伝達の手段以上の何かであるということに端を発していると述べています。そういう意識が「田園」にも感じました。それでまた、この詩はタイトルを冒頭に持ってきたくないわけですよね。最初に田園と書いてしまうと意味が付いてしまう。それ以外の言葉の論理的な意味の展開も同様に嫌がっている。目次を巻末に置いているのもその延長と思いました。意味性から逃れていく、ほどいていくみたいな意識が出ているのかなと思いました。あと、「f」の存在は気になりましたね。「fとビル街の真中にあるカフェのテラス席で食事をしたとき、われわれの」とか、人称では「われわれ」が出てくるんだけど、それ以外はf、f、fと続く。三連目では「わたしたち」と人称が変化する。「f」とは少し違うけど、「K」だと日本の近代文学にもよくよく出てくるけど、「knife」のkが音消失するように、物語の途中でKも消える場合が多い。「f」は途中から「わたしたち」の形に変わっていくのが興味深い。「わたしたち」というかたちに消えて行ってしまう。仮にこれが「T」だったらどうでしょうね。「田中」のイニシャルかなと推測してしまって少し間が抜けてしまいますよね(笑)。「f」はほどよいイニシャルの選択だと思いました。それと、郡司さんが先ほど「軽やか田園というものを~」に触れていましたけど、「田園」は「馬」と同じか近い抽斗に入っている言葉だと思いました。それから、読み進んでいくと「ささやかなな斉唱の」と、ここで言い止すんだすよね。言葉について意識深く書くこの詩は、極まってくると言い止すんです。書ききらないというか、書ききれないというか、何か臨界を超えたときに言いさす方向に向かう。「そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、」のあとも読点で止めている。こっちの場合は、さらに続く感じを期待させます。続きそうなところや言いさしで終わるところ、興味深い思って読みました。

郡司:ありがとうございます。言いさす表現は他の詩にもいくつかありますよね。「絵の中の美濃吉」もラストが「吹き抜ける風の。」で終わっている。現代短歌でも言いさしで終わる技はありますけど、この詩集でも何か限界や臨界を超えたときに、語りに言葉が追い付かなくなる感じを演出しているのかなと思いました。あと「T」だと田中を思うは笑いました。

本野:「f」だと絶妙にイニシャルっぽくないよな(笑)。

郡司:そう、詩の中だけに住んでいる謎の住人みたいなイメージ。

本野:「f」の形も猫背の人のシルエットみたいでおもしろいよね。

郡司:おお。

本野:「f」にギャル感というか、適当さゆるさを感じるんだけど、わかるかな。こういう友達、僕はいるなーと思って。

郡司:わかるわかる。「われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。」の少しだけ非日常な出来事に対して、「f」は「いまのなに」と反応するだけで、興味をなくしてしまうんだよね。そこの抜けた感じとかは本野さんの指摘する通りかな。

本野:選挙カーに手を振っているところにもそういうことを感じる。日常の中で選挙カーに興味を持つことってそこまでないような気がするんだけど、少しふざけて選挙カーに手を振ってちょっかいを出すみたいなゆるさが良い。バスに子どもが手を振ってしまうみたいな。絶妙な適当さがある。「f」と語り手は最後に「わたしたち」と人称上まとめられるんだけど、「f」がイマジナリーフレンドだった感じもしていて、実は自分のことを話していたのかなとかも思ったりした。

郡司:そもそもなことを言うと創作物だからすべて自分の言葉なんだけど、そうね、イマフレ感は思います。てか選挙カーには手を振りがちな気がするんだけど(笑)、どうなんだろう。まあ僕が適当ゆるゆる人間なだけか。

本野・安里:笑。

本野:話が脱線するんだけど、「とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。あいして、います。気がつけば浴槽が水でいっぱいになっていて」のところ、既視感があって、椎名林檎の「長く短い祭」のミュージック・ビデオに似ているんですよね。女の人が彼氏か誰かをシャワーヘッドで殴り殺して、死体をたぷたぷの浴槽を沈めて、外に逃げるんだけどディスコに行ったりして狂ったように踊るのよ。最後はパトカーのサイレンの光に顔が照らされて終わるっていう斬新なやつなんだけど。愛ゆえに殺すみたいな内容なんだけど、「犯人が逃げてゆく」とか「あいして、います」とか「浴槽が水でいっぱい」とかモチーフがつながっててびっくりだったな。たまたまかもしれないけど。

郡司:まあ間違いなくたまたまでしょう。椎名林檎と現代の作家との関連を論じた批評とかって何かありましたっけ。

本野:「文學界」で椎名林檎論が連載されていたから、それなりにあるね。

郡司:石松さんにインタビューしたわけじゃないからわからないけど、ワンチャン影響されている説ありますね。

本野:そもそも「鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。」のイメージの関連はありがちといえばありがちなんだけどね。

郡司:そうね、椎名林檎まで出さなくても、イメージはそのものは既存のものから借りている感じ。

本野:急に演歌みたいだよね、「あいして、います」って。

郡司:また脱線するんですが、噂レベルで俳句では電車の旅とか車窓にまつわる句に名句なしと聞いたことがあるのですが、それって本当ですか。
安里:僕は教員なので仕事がら例年三百人くらいに俳句を書いてもらうのですが、車窓の富士とかはみんな読みがちではありますよね。やはり観光っぽくなってしまう。この連においては、「とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。」の言葉の運びから、重たい「田園」の印象があります。「金田一少年」とかも出てくるから推理小説のような世界観。俳句だとやや難しいかもしれないです。

本野:初富士をしばらく旅の肘の上/鷹羽狩行、とか好きよ。

郡司:ふむ。

本野:この連は「金田一少年」の語のつながりを摘んでいる感じよね。

郡司:そうだね、「金田一少年に手紙を書きたくなる。」から始まって手紙に添える絵の中の話として鈍行列車、車窓、犯人~って言葉がスライドしていくわけだから、金田一少年が分岐ポイントになっている。この運び方、冒頭の比喩に近い技だなと思います。喩えた物がメインになるように、金田一少年に送る手紙に同封する絵についての内容が本体にすり替わっている。

本野:詩の最後は「金魚鉢には金魚が数匹、泳いでいて、そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、」となるけど、暗いまま終わるのかと思いきや、明るいイメージに車線変更していて、まあなあ、若干乗れない感じもあるけど、「金魚」で明るさを見せて臭み消しているのはうまいと思う。

郡司:たしかにポエジーなワードもりもりで終わるから警戒するかもね。

本野:ここのラスト、これまで自分にとっての田園の話をしていたところから、金田一少年を経由して第三者視点的な田園について語り始めて少し戸惑ったんだけど、どうでしたか。

安里:そうですね。二連目までは夏の世界観で進んできて、三連目から心象の世界にシフトした印象があります。だから金田一少年とかも突然出て来たのかなと。三連目は走りまくっている感じですよね。結構なんでもありみたいな。かなり極まってきていて、言い止しも起こるし、「わたしたち、」のような途切れも起きる。僕は普段、俳句を書いていて、詩型が短いから書き始めから終わりが見えるのですが、現代詩の難しさは、終わりを自分で決めるところにあるのではないか、なんて思ったりします。そういうところ、なんていうか、「いかついな」と思います(笑)。

郡司:本野:笑。

安里:もし慣れない僕なんかが詩を書こうとすると、所々で事件を起こさないといけないというプレッシャーに駆られると思うんです。だけど、この詩は最後、割とポップな感じで終わる。この金魚鉢のあたりがないと、詩として筆が置けない感じがするのかもしれません。そこが難しいな、と。この「堆積する夏」は一連目、二連目に返すわけではないけど、詩が循環するように設置してあるという印象を持ちました。そしてタイトルの「田園」が最後に出て詩が閉じるわけだけど、この置き方がこんなにも効くとは思わなかった。別にそこまで詩をたくさん読んでいるわけではないので、きちんとはあまり言えないですけれど。郡司さん的には最後をどう思いますか。

郡司:ご指摘されていた通り最後に詩が円環的になっているというのは、言われてみてそうだなと思いました。最後にタイトルで「田園」と出てくると、田園の空間的な広がりが想起されつつ、時間的な円環も同時にあって、時空間の大きさを強く感じます。

安里:基本的には上手い書き手だなとやはり思います。

郡司:良い感じにまとまってきたと思うんですが、「田園」について言い足りていないことはありますか。たくさんメモしてきた本野くんは大丈夫?

本野:うん、規則性のところを話せたから良いかな。

郡司:では「田園」はここで閉めて、次行きますか。

 

「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」

郡司:まずはこれを選んだ本野さんからコメントもらいますか。

本野:はいはい、散文詩なんだけど、限りなく散文の幻想小説に近い感じ。夏目漱石夢十夜』くらいの感覚がするかな。でもね、この詩は資料、ルポを読んでいるような淡白な味もする。そこが怖いといえば、怖いけど、楽しそうといえば楽しそう。僕は土着信仰系のルポを読むのが好きなんだけど、まさにそれを読んでいる感じがします。こういうのってどうしても最初に状況を整理したくなるよね。
まず、タイトルの「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」が変ですよね。わざわざ双子を双子たちと複数形にしている理由はなんだろう。ハイ・ウォーターズには必ず双子で生まれてくる種とそうでない種がいるのか。語り手はどちらに属しているのか。もしくは、語り手は語り手独自の種なのか。そういう想定をしながら読める。ただ、語り手は双子たちのことを若干下に見ている気もする。例えば、一連目、「彼らはハイ・ウォーターズに昔から伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。」とか「呼吸を浅くして、薄眼で表層を泳ぐように暮らしていた。」とかの言い回し。まさに「生きもの図鑑」ぽくて、自分たちとは違う種族を超客観的に説明するときのような文体だと思う。でも、最後の五連目は急に語り手が内部に入り込んで主語が「わたしたち」になるんだよ、双子たちの観察から自分たちの生活に視点が移っている。・・・てか、ハイ・ウォーターズってどこなんだろう。SF的なんだけど、イメージだとワンピースの空島みたいな感じかな?

郡司:笑。

本野:五連目の「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている。」についてちょっと思ったんだけど、もしかしたら語り手自身も双子の片割れで、「双子たち」は喋らないけど「語り部含む双子」は隠れて喋っているということを言っているのかな。すごく突飛な考えだけど、語り手が実は二人の可能性もあるよね。それ意識してるとしたらすごい発明だけどね。他にも細かく気になるところはあるんだけど、ひとまずこんな感じで。お二人の感想を聞いても良いですか。

郡司:ルポっぽさはわかります。取材してきたみたいな文体ですよね。初読の感想ですが、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」のタイトルだけ見て『ジョジョ』みたいだなと思いました。内容的にも「昔から伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。」の突然の設定とか、物語の中盤で挿入される小ネタみたいですよね。

本野:ダークファンタジー感はあるかも。

郡司:それで、ぱっと見は『ジョジョ』っぽいなと思ったんだけど、「一組の解き難い知恵の輪のように暮らした。」とか「喋らない代わりに彼らはportraitを描き合った。」とか「太陽がラヴ・ソングのように降り注ぐ」とかのハイ・ウォーターズにおける双子たちの微笑ましいような、切ないような、突飛なような暮らしぶりをよくよく読むと、今後は宮崎夏次系の短編のような雰囲気も感じた。石松さんと夏次系は比較的近い世代だと思うんだけど、似たような表象を共有していておもしろかったです。あと、僕はてっきり五連目の「わたしたち」は私と双子たちのことを指しているのかと思っていたんだけど、本野さんの話を聞いて、語り手も双子説に気づけたのはよかったです。もし私も双子たち側だったら、双子について一方的に語っていた私=主体が客体に反転するようでおもしろい。これはまた脱線なんですけど、この前、B級ホラー映画の『牛首村』を観てきました。作中で双子しか生まれてこない村が描かれるんだけど、その村では双子は忌子扱いなので片方しか生きることが許されていないんです。そのイメージがこの詩とつながっているなと思いました。「どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬ」とかもろ近い発想ですよね。こういうのって創作物あるあるやなと思いました。

本野:ひと昔前のボカロとかそういうのばかりだよな。

郡司:笑。

本野:少しダークなボカロ曲とかラノベとかそういうモチーフばかりやったで(笑)。

郡司:まあそんな感じっす。安里さんどうぞ!

安里:そうですね。お二人が仰っていたように、読んでいて、近代以前というか、村社会における信仰や迷信の中の双子、は怪(しるまし)として位置づけられるような双子にも思いが至りました。それが非常に耽美的に描かれている。あとで触れる「絵の中の美濃吉」もそういう感じで、スティグマというか、神から寵愛されているがゆえに障碍という徴を受けている、という想像力。これは世界的にも、日本の古典文学においても見られる表象ですね。目が見えないから神の子になるとか、イタコも近いですね。宗教芸能、遊芸者なども思い浮かぶ。そういうスティグマとしての障碍が耽美的に語られている、聖性を得るように書かれているのが、ある意味では古典的なモチーフという感じがした。僕がこの詩を読んでいて思ったのは、ヴァーチャルとまではいかないんだけど、汗腺がついてないというのかな。汗をかく器官がついていないような手ざわりの人たちが、詩に登場してくるよな、と。耽美的な美しさとその危険性が毒にも薬にもなるようなかたちで、古典的なモチーフや位置づけで捉えられているなと感じました。僕はポリティカル・コレクトネスに対して、それで根本的な何かに対処しえたと思えないから全然賛成ではないんだけれど、それでまた、毒にも薬にもならないものを書き続けることに何の意味があるのだろうとも思うんだけど、そういう意味でこの詩集は猛毒も含んでいるとも思う。「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」にはなんでしょうね、言語以前、文学以前といった印象もある。口承伝承とかそういうものに関連した印象を持ちます。双子たちは不思議な連絡の取り方をしますね。手話とか、portraitを描き合うとかね。言葉を棄てている。次の連で「太陽がラヴ・ソングのように降り注ぐ」とあるから、語りは「言葉」の側に立ってもいるんだけども。「鉱物が子宮のように暖められ」と続いて、この比喩は健やかにも見えるんだけど、非常に暴力的なことを言ってもいる。あとは、「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている」。これだけだとパワーフレーズな感じがしてやや重たいんだけど、その後がとても巧みです。「夏至前の、夕餉を準備するとき、透明な蝉が一匹、糸のように鳴く。」の糸のように鳴くとかは、半端ではない。「その鳴き声に背中では気づいていながらも、静かに食卓を整えていく。」、この辺も上手い。これを出すのかと。これだけ物を出すとふつうはごたついてくると思うんだけど、それを読ませきるという。最後に「いつの間にか半袖の服を着ているのだった。」ときて、白シャツかなとか考えたんだけど、そういう肉付けの仕方が上手い。でも汗の感じはしない。そういう良さがある。

本野:汗腺の話、めっっちゃ的確だと思います。的確オブザイヤーあげます。

本野:これ、「ラヴ・ソング」もいいよね。双子たちは言葉を棄てているんだけど、この語り手はラヴ・ソングを知っているわけで、歌なんて言葉の最たるものだし、やっぱり「私」だけ特別だよね。

郡司:portraitもそうだし、ナカグロをこれ見よがしに使うところも空気感作りを意識しているよね。

本野:ハンカチーフみたいなノリね。

本野:細かいところなんだけど、「彼らは半跏を組み自らの白い肌を焼いた。」の半跏って仏像とかに使う言葉の半跏だよね?

郡司:検索したら出てきた。

本野:双子を忌子として扱うのってタイの仏教の影響をかなり受けていたりするんだよね。だから、ワードのチョイスでも繋がっているのかと思ったり。タイの仏教の中だと、双子は年功序列を乱すものだから良くないとされていて、それが色んなところに伝わってきて双子が忌子ですみたいな話が広まったらしい。またちょっと話がズレるんだけど、『宝石の国』という漫画があって……。

郡司:あーーーわかる。めちゃくちゃわかるその連想。良い例え漫画持ってきたな。

安里:ほー。

本野:こういうやつ(漫画を見せる)。

郡司:舞台が抽象的だったり、透明感があったり、登場人物が兄弟みたいだったり、雰囲気似てるね。

本野:で、そうだ、話したいと思っていたのが、鍵が云々のくだりが少し難しかったんですよね。「描き合う彼らの姿は最も尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられていなかったからか」に対して、「泉のように自閉していたにも関わらず」のつながりがなんか違和感を感じたというか、自閉していたから鍵がかかっていなかった、とかそういうことでもないかな。だめだ、話ごちゃごちゃになってきた。「徒然草」の「柚子の木」の話じゃないけど、泉に外的要素が入ってしまうとそれは完璧ではないけど、泉だけでみるとそれは完璧みたいな話をしているのかなと思ったり。双子の関係が自閉しているのにそこに鍵がかかっていないというのが矛盾しているようで、どういう風に読んだら良いのか若干悩んでしまって。

郡司:鍵がかかっている状態とは何か? みたいなこと?

本野:いや、えーと、双子は泉のように自閉しているわけじゃん。内側から閉ざされている?

安里:鍵がかかっていないと言っているのに、自閉していることへの違和感?

本野:そうかも(?)説明的に考えすぎですかね。

安里:あーなるほどね。一応読みとしては、三連目が「喋らない代わりに彼らはportraitを描き合った。描き合う彼らの姿は尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられてなかったからか、なんの感情の前触れもなく、わたしはたとえば涼しい風が吹き抜けたときに涙を流していることがある。言葉を棄てた彼らは泉のように自閉していたにも関わらず。」とあって、「鏡だったのだが」や「掛けられてなかったからか」は詩的表現として処理してしまうかな。鍵が掛けられていないことを束縛されていないと読むかは別として、「関わらず。」で僕は違和感がなくなった。言葉を棄てて自閉していたのにも関わらず……。

本野:ああーー(解決した顔)

安里:わかった?(笑)

郡司:わかったの?(笑)

安里:論理性のみでは成り立っていないものを論理的に説明しようとしているからわかりづらくて申し訳ないのですが(笑)。言葉としては「関わらず。」が上手くそこを処理していて、いや、別に何も処理していなくて、というか言葉の理屈ではないのですが、処理しているように見えている。

本野:そうか、「関わらず。」ね。どこに係っているのかよくわかっていなかったです。

安里:係り方としては、「だが、」、「からか、」とか理由で結んでいるから、意味的によくわかなくなってくるんだけど、語感としては、「関わらず。」が上手く処理しているように見えると思った。

本野:なるほどなるほど。

安里:たぶんそうじゃないかな(笑)。

本野:ここ、絶妙に文の繋がりが妙だから、言っていることが反転、反転していく気がするんですよね。でもそうかそうか、わかりました。言ってしまえば、鍵を掛ける必要すらなかったという話ですかね。

安里・郡司:うんうん……?

本野:違うね。なんでもないね(笑)。

安里:笑。

郡司:いやいや、でも少しわかるよ。そもそも鍵が掛けられていないことと自閉していることは矛盾なく両立するじゃないですか。抽象的に考えずとも、鍵を掛けずに閉じている物は具体物はたくさんある。だからさっき本野さんが言ったような解釈でも無理はしていないと思いますよ。

安里:精読して意味を正確に理解しようとすると、「だが、」、「からか、」等のディスコースマーカーに「あれあれあれ?」って振り回されてしまうんだけど、ある一定のスピードで流し読んでいくときは、引っかからないというか、流して読めるところが上手いなと今思いましたね。

本野:ぱっと読むと読めてしまうところはありますよね。

安里:だまし絵的にぱっと読めてしまう。

本野:丁寧に言葉をはめていくと、確かに「あれ?」ってなる。でも、マリカーダッシュ板ではないけど、何かの言葉をきっかけに引っ掛かりがほどける瞬間があって、おもしろい。それをルポっぽい散文詩でやっているのがまたいかついなと思うよね。
安里:『針葉樹林』は、行替えしない散文詩のほうがレトリックと馴染んでいる印象を持ちました。行変えすると言葉が浮いちゃうかもしれない。昔何かで読んだんだけれど、戦後派の詩人の一人が散文詩は怖いと書いていて、それは散文詩だと散文でいいじゃんてなっちゃう怖さがある、と。そこを超えて詩として機能させているのは凄みがありますね。

本野:完璧にまとめてもらっちゃったな(ニコニコ)。


「雪」

郡司:行変えの詩って言葉足らずな感じがしませんか? 散文詩だと饒舌気味になってしまうんだけど、行変えはそこが抑えてあって、この詩集のまた別の良さを映し出していると思って「雪」を選びました。まず、この詩集の見た目の話なのですが、装幀が銀、灰色ベースで、使われている写真も硬質な感じがします。そこが「雪」のとマッチしている。詩の内容で目立つのは、一連目と三連目で「あなたの両目」、「あなたの両の目」と繰り返しになっているところと、三連目に「この百合根は性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」と急にインパクトのあるフレーズが出るところ、あとは他の散文詩と比べてページの余白が多くて、雪のモチーフと響き合っているところですかね。もう少し具体的に読んでいきたいと思います。「雪」は、パワーフレーズのラッシュがすごくて、「生まれてから一度も/食事をしたことがない」、「描いた絵が/少しずつわたしに似てゆくことに/ずっと前から気づいていた」、「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」、「生きることは衣服のように白い」と、短い中で各連に印象に残るフレーズがあります。それをもったいぶらないで、次へ次へと進んでいく。そこがとても清々しい。詩の終わり方もきっちりしていて、「わたしには彼らが/息を止めているようにも見える/息を吹きかければ/硝子窓が曇る/生きることは衣服のように白い」とありますが、息→窓→曇る(曇ると白くなる)→衣服のように白い、とイメージが鎖にように繋がっていきます。やや丁寧過ぎる印象はありますが、終わるべくして終わる感じだなと。

本野:生の紙を持って、装丁が云々言いながら読み合うのは、古典的だけど熱いよね。この収録オンラインで画面に向かって喋っているからそこだけ現代的だけどね(笑)。「雪」は、「野鳥のこと」、「冬のsweater」と少し生臭い詩が続いていたところで、急に深夜の住宅街みたいな静観に落とされた感覚があったね。「生きることは衣服のように白い」はクリティカルだよね。リンカーンの「朝までそれ正解」ではないけど、「い」から始まる「生きることとは?」みたいな問いがあったら、「衣服のように白いこと」が強いアンサーになる(笑)。この後の話にも出るだろうけど、百合根のくだりをどこまで深く読むのが良いのかが気になる。生っぽく読んだ方がいいのか、全体となじませて読んだ方がいいのか。まずはそんなところです。

安里:装幀の話が出たけれど、サイズ感も良いですよね。『針葉樹林』は僕の句集も手掛けてくださった佐野裕哉さんが担当しています。

郡司:左右社は確かにこういう系統の装幀多いですよね。

安里:そうですね。佐野さんの装丁は白を基調としたものが多い気がします。余白の話も出ましたが、本ってめくって読む意味はとてもあるなと思っています。それで、「雪」の感想ですが、ダジャレみたいですこぶるダサい読みをいきなりしてしまうと、「skin/風邪をひいても、/背中を撫でてやれば大丈夫なはずだ」のskinは、肌なんだけど音がくしゃみっぽいなと思いました。ただそれだけなんですけれども。

本野・郡司:笑。

安里:さっき話に出ていた「生きることは衣服のように白い」とかのパワーフレーズって、使うのがとても難しいと思うんですよね。「生きることは衣服のように白い」、まあ言ったら負けみたいなところもあるんだけど、それを成り立たせるあたりがすごいですよね。モチーフは、知恵の輪とか硝子とか息とか鍵とか、これまでの詩に出てきた物もちらほらありますね。

郡司:知恵の輪は「ハイ・ウォーターズの双子たち」にありますね。

安里:そう、ハイ・ウォーターズと響き合うところも多い。「酸素は薄く、彼らはなるべく呼吸を浅くして、」とかは「雪」の最終連と合いますよね。肌は領界性でもあるというか。肌は自身の身体と外界を隔てるものでもあると思うんですけど、グロテスクさは肌ではないところにある気がしています。口とか、目とか、鼻とか、性器とかにグロさがある。「あなたの両目は/笊として雪を透視していて/生まれてから一度も食事をしたことがない」とあるんだけど、汗腺のグロテスクさの延長にあるような感じがする。食事をしたことがない、食べるというグロテスクな営みをしていない。あとは、「あなたの両の目」とか「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」とか「息を止めているようにも見える/息を吹きかければ」のあたりは汗腺のなさが目立つ。そうしたぎりぎり生々しくない感じの積み重ねが、グロテスクへの拒絶、とまではいかないんだけど、アンビバレントな形で「生きることは衣服のように白い」を許している感じがするのかもしれない。お二人の話を聞いていてそんなことを思いました。

郡司:ありがとうございます。「雪」と「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」の関連は僕も思いました。どちらの詩も知恵の輪が印象的ですけれども、「雪」では知恵の輪をほどいてしまうんですよね。ハイ・ウォーターズでも田園でも、詩の中に語り手と語られる対象がいて、詩の後半で「わたしたち」と括られるのですが、「雪」は最後まで私は私、相手は相手のままです。「わたしたち」になることはない。そこが象徴的に知恵の輪の繋ぎ/ほどきで表れていると思います。

本野:鍵とかもあるね。ハイ・ウォーターズは南京錠で、雪は差し込むほうの鍵っぽいけど。

郡司:うんうん。あとはそうだな、百合根をどう読むかは迷うよね。

本野:さっき安里さんが言っていたグロテスクさにつなげる読みが一応それっぽいよね。

郡司:うん。百合根のくだりがあるおかげで逆説的に臭み消しになっているという機能的な話は納得できる。百合根もそうだけど、この詩に限らず確かに言ったら負けみたいな強烈なフレーズは創作上あると思っていて、例えば「生きるとは」とか「愛とは」とか「人生とは」とか……。そういう言い回しは使えば使うほど言いたいことが手から零れ落ちてしまいがちですが、「雪」はぎりぎりのバランスで成り立っているように思います。

安里:幻想文学っとぽさは思いますよね。エログロの角度でもその印象はある。須永朝彦だったかな、男性器が百合の話とかあったと思う。割りとベースは日常なんだけども。まあまあでも、全体の中でみて「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」はビックリしますよね。なんでここの位置、みたいな。

本野:百姓とかは百合根から摘んできた言葉なんだろうな。

郡司:この詩は短さゆえにずっと全力を出していると思うのですが、出し切った先にある脱力感として「生きることは衣服のように白い」がある感じはします。

本野:この詩集全体の流れとして、「雪」のあとに表題の針葉樹林が出てくる詩(「songs of experience」)なんだよね。それを踏まえると、「生きることは衣服のように白い」は先に言っておきたかったのかなとか思うな。話が少し戻るけど、散文詩のほうは世界観の作り込みがすごいけど、改行詩は、主体の感覚に依った詩が多いよな。

郡司:それは思うんだけど、なんでそうなるんだろうね。もちろん形式が変われば働く力学を変わってくるんだろうけど。「野うさぎ」とか読んでもすごくぶつ切りだよね。頭の中で浮かんできた言葉の断片を書き起こしていったみたいな感じ。それに対して散文詩だと、言葉先行というよりは世界観先行で書かれている。

本野:改行詩の世界観が狭いというより、散文詩の作り込みの意識が高いのかな。別に散文詩ででも「雪」みたいな雰囲気で書けると思うんだよ。でも、ほとんどすべての散文詩が状況説明的に書かれていて、詩集の最後の「クォーター・サイレン・ハウスで三日間を過ごした」もそうだし、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」や「絵の中の美濃吉」もそう。

郡司:そうねー。「wild flowers」の導入とかもそういう感じ。

本野:そうそうそう。

郡司:これから事件が起きますよ、みたいな。

本野:「pet cemetey」の導入とかもそう。

郡司:これまでの話を受けて、僕はやはり改行詩のよさは前提とか作らずにいきなり殴れるところだなと思いました。ラッシュで殴り続けられる。あんまりラッシュされてもくどいんだけど。

本野:詩集前半の「sad vacation」とかは比較的世界観盛ってるから、全部が全部「私」の感覚を詩にするというわけではないけど、後半に行くにつれて「雪」みたいな改行詩は増えるね。「リヴ」とか好きで選ぼうか迷ったんだけどね。

郡司:まあこれくらいでいいか、「雪」。

本野:散文詩と改行詩の違いについて話せて良かったと思います。


「絵の中の美濃吉」

安里:この詩集の中で最南端と最北端があるとしたら、「絵の中の美濃吉」がそのどちらか一方でしょう。「美濃吉」という名前がまず時代がかっていて目を引きますよね。前の詩には「スラ」、他の詩にも「虹郎」とかって個性的な名前は出て来ましたけど。この詩も、ハイ・ウォーターズと同じように、耽美的で、スティグマを負った人を描いている。「彼は生まれつき音が聞こえなかったのである。」の部分とかね。ここが思想を分けますよね。その辺も含めて極まっている印象がある。冒頭が「たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院を鏡のように並んで走り抜ける。」と仮定形で始まって、そこから詩が続いていく。仮定しているところにどんどん入り込んでいきます。「売れ残った林檎。瑞々しい陶片を拾うために美濃吉は労働をして過ごした」と続きますが、「労働」は少し言葉として重めです。「玻璃質の冷涼な大気の中で、美濃吉の腎臓はとく、とく、と健やかに水を受けていた。」ここはどちらかというと汗腺ある側という感じがしますが、清潔にデフォルメされているイメージもあります。次の連に移って、ここで馬について描かれるのですが、一つのモチーフについてしっかり叙述を重ねているのは、全体でみると珍しいと思った。「正確に言えば、その馬の精神だけを見たことがある。」とあるけど、連の頭で「盥に映る空が、舟のように揺れていた。」と書かれていると、その流れで拒絶感なく読まされてしまいます。「馬の肩から白く光る骨が突き出ていたからか、貝を食べる人々はそれを嫌った。すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。」、ここは今までの詩とも重なりますよね、「からか、」の文体とか、「貝を食べる人々はそれを嫌った。」の口承伝承っぽい印象。科学以前、迷信や怪(しるまし)を信じている感じ。あるいは時間の書き留め方。何月何日に何があったとかではなくて、雷が鳴った日とか、ラヴ・ソングが降り注ぐ日みたいな、事柄で把握する感じ。「貝を食べる人々」という区別の仕方も、生活の仕方の差異でその集団を指しているところに口承伝承っぽい印象がある。これは脱線なんですが、中島敦に「狐憑」という小説があって、これに似ているなと思いました。文学以前のムラで物語めいたものを面白おかしく話す男が、最終的にはムラの偉いやつらに疎まれて殺されるんじゃなかったかな。詩や物語の始まりを考えさせる小説なんです。詩にもどると、「すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。」の理屈の壊れている感じも口承伝承っぽい。「井戸が眩暈をした朝があった。美濃吉は昔から人間より事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪摘んで、その闇に投げ落とした。」と来て、無理なく且つだれずに読めた。その次の連がこの詩集の帯に抜き出してあるのかな。「馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。」、作文という語の選択が上手いです。文、ではない。「夜風に靡いた草は妹のように泣いた。」。ニューウェーブ短歌でも「妹」は偏愛されるモチーフだったかと思います。兄妹始祖神話という想像力までは飛躍するのかな、どうだろう。まあそこまで読むかは別として。次の連、「美濃吉が行く地獄とは、たとえば理容院の二重らせんのことだ。それはたくさんの折鶴の首でできた地獄である。」ここで詩の冒頭と重なってきます。「わたしは過ぎてゆく秋の車窓のひとつひとつに密告をする。」、車窓もよく出てきますね。ここの「車窓ひとつひとつに密告をする。」はすごい表現で、車窓の内側ではなくて、外側から乗っているひとりひとりに密告するという。で、最後の連、「整然と並べられた無数の椅子の脚。」、ここは本野さんが「田園」で指摘したように規則性が表れている感じ。「彼が思わず口を開け「あ、」と漏らしたときの未必の故意の、一幅のなかに吹き抜ける風の。」、法律用語が出てきて、たぶん自殺のことをほのめかしているのかな。最初にこの詩を読んだときは美濃吉の存在が少し浮いて見えたけど、諸々の極まりとかモチーフとか書きたいであろうこととか考えると、オーソドックスな感じがしてきた。全体の射程の中で広いところを見ていると思ってこの詩を俎上にあげました。ただ、「美濃吉」という人命ににどの程度含みがあるのかわからず、知っている人は知っている話があるのかななんて。すみません。かなり長くなりました。

郡司:ぜんぜん問題ないです(笑)。そうですね。美濃吉にだけではなく散文詩全体に言える話なのですが、時間の経過が特殊ですよね。簡単に言うと「バグったあらすじ」みたいな。もっともっと長い長編の物語があり、それを無理やりぎちぎちにあらすじにしたらこういう散文詩になった感じがする。ジュラール・ジュネットの『物語のディスクール』でいうところの物語内容と物語言説の長さの話。超要約法で書かれているみたいだなと。超要約法なんて用語はないけど。あれに近いです。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文体に。『百年の孤独』も物語内容の長さに対して物語言説が短すぎて、笑っちゃうような速度で展開が起きます。この詩は冒頭がたとえばから始まりますが、宙づりのまま詩が駆動していくところは、この詩集における直喩の機能とリンクしていると思います。栞文で松下育男が「喩えるものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまう」と述べていますが、まさにそれに近いことが起きている。「たとえば」の仮定の話の中でどんどん話題がスライドしていく。五連目ではまたもう一度「たとえば」が出てきます。こうした運動は、直喩でやっていることの別バージョンだと言えると思います。「田園」の金田一少年の手紙の絵のくだりも同じです。あとはそうだな、詩集の帯に書いてある四連目はシンプルに上手いですよね。「喪失的にうつくしい」とまで書かれるとかなり警戒するんだけど、「作文だった。」の落とし方がテクいというか、やや幼い語彙の使用がハマっているっ感じがする。最後の行の「吹き抜ける風の。」の言いさしも良いですよね。タイトルが「絵の中の美濃吉」とあって、「絵の中」と書かれると初手から閉塞感が漂うんだけど、最後に爽やかにオープンエンドな感じで終わることで、イメージの反転が起きて気持ちいい。僕も長くなった。本野さんどうぞー。

本野:よっしゃもうこれ難しいからパッションだけで話すぞ〜! まずね、美濃吉がかわいそうだと思った(笑)。

郡司・安里:(笑)。

本野:なんだか美濃吉がいるせいで世界がマイナスに傾いているような書かれ方。みんなが美濃吉を排除したがっているように読めたな。美濃吉は超純粋な感じがするのよ。でも、美濃吉を世界は受け入れていない。馬のくだりのところ、美濃吉は馬が好きなんだけど、貝を食べる人々は馬も美濃吉も嫌ってそうで。

郡司:遠まわしに迫害されていそうな気はするよね。

本野:そうそう。これは妄想だけど、美濃吉が貝を食べる人々に話すんよ、「こんな馬がいた」って。すると貝を食べる人々は「いや、俺たちはそんなにあの馬のこと好きじゃないけどな」と遠まわしに美濃吉を嫌うみたいな。中学生ぽい。

郡司・安里:笑。

本野:あと、美濃吉は事物と交流できるとされているのに、事物側は美濃吉をあんまり好いていない感じもする。この絵=世界は美濃吉がいない状態で完結していて、美濃吉がいるせいで歪が生まれているとすれば、最後の夢を見る場面、美濃吉は徐々に身を削られていって、死に近づいているとも解釈できる。でもね、なんで世界が美濃吉を排除したがっているのか僕は絶妙に違和感があって、美濃吉がいるおかげで世界に均衡が生まれている感じもするんだよ。井戸の場面とか、耳が聞こえないおかげで美濃吉は不幸から免れているじゃない。美濃吉が世界の穢れを引き受ける歯車になっているようにも読める。パッション読みなんだけどね。

郡司:いや、おもしろいおもしろい(笑)。

本野:本当にかわいそうな感じするのよ、美濃吉。

郡司:「闇からは美濃吉を呼ぶ声が絶えなかった」はこわいよね。ダークサイドに勧誘されるのはつらそう。

本野:でも美濃吉はそれが聞こえないんだよね。もしかしたら、美濃吉が花を井戸に投げ入れなかったら大干ばつが起きていたかもしれない(笑)。ふつうの人だと闇に引き込まれて生贄になってしまうから。

郡司:生贄、わかるわ。耳が聞こえないとか少し疎まれてそうな感じとか、未開拓の村で生贄にされてしまいそう。

本野:井戸に対しては最強キャラになっている美濃吉。デメリットないわけだから。美濃吉って名前の時代観もそういうイメージを寄せてくる。

郡司:よくわかっていないのですが、美濃吉は名前に何か元ネタがあるんですかね。

安里:どうなんだろうね。ある一定層以上の年齢の人には浮かぶのかな。

本野:えーなんだろう。共通認識があるのかな。

安里:歌舞伎とかであるのかな。

本野:名字「林」のやつはガタイ良い、みたいな変な偏見レベルのことを言っているのかな(笑)。

安里:ふつうに検索するとレストランが出てくる。美濃吉はふつうにいそうだもんな。虹郎はあいないと思うけど、いないことはないか。

郡司:俳優に村上虹郎がいるので意外といると思いますよ、虹郎。

本野:ウーアの息子ね。

安里:現代にいるんだ。キラキラネーム、いかついな。

郡司:何にも関係ないとして、それでも「美濃吉」を詩の中で使うのは難しそうですよね。だって「美しい」「濃い」「吉」って。もりもりだな。
本野:美濃吉を見たときに、新見南吉を直観で連想しまったな。作中の登場人物にいそうだなと思って。時代背景も近い感じで。

郡司:そうね、この詩の語彙は意識的に現代的なものを使わないようにしている。理容院だけが目立つけど。他だけ読むとまだ鎖国してそうな雰囲気。

安里:その感じでいくと、「労働」とか「馬の精神」とか「事物」とか出てくるから、明治くらいなのかな、そのころから理容院の二重らせんがあるのかわからないけども。「たとえば」で始まる「地獄」をどう読むかはやや難しいです。

本野:地獄は絵の中を一歩出た世界に見える。ここで「私」が出てきて難しくなってしまった。童話とか絵本を読むみたいなテンションで読んでいたら急に「私」が出てきて、メタっぽくなったなと。ここで「私」は密告しているんだけど、うーん、美濃吉について言っているのか、なんなのか。

安里:地獄は想像の世界でしかないわけだけど、不思議なのは、そこには無人駅があって、枕木がとろとろと眠りについていて、そこに語り手の私がいること。しかも地獄にも秋があるらしい(笑)。美濃吉についてずっと語っていたのに、美濃吉を起点に、気がついたら語り手が地獄の中にいて、相関がおかしなっている。世界の構造がやや難解に変化していく。

本野:「吹き抜ける風の。」を感じているのは「私」な感じがするよね。最後に美濃吉の呼び名が「彼」に変わるんだけど、ここで明確に視点があることが判明する。これって「私」あるいは「読者」の存在が詩にズレこんで来てませんか。

安里:「吹き抜ける風の。」が「私」側、というか読者側だとするなら、「未必の故意」は「彼」を助けないという意味で解釈できるのかな。ミヒャエル・ハネケという監督の『ファニーゲーム』という胸糞映画の一コマを思い出したな。山小屋に家族で泊まりにいくのですが、嫌な二人組がそこにやってきて家族を虐待しまくるという。途中でお母さんが銃を奪って二人組のうちの一人を撃つんだけど、もう片方の男がリモコンの逆戻しボタンを押して、画面を巻き戻してしまうんです。見ているこっち側の感情を逆手にとって演出してくる。そういう感じと近いと思った。観ているわたしたちの欲望と「未必の故意」の関係が。

郡司:地獄にくだりのおもしろさがわかってきました。この連までは読み手は美濃吉を追いかけてきたのに、気づけば「私」=読み手側が地獄にいる。読者とテクストの見る/見られるの主客関係が逆転してしまっているようです。安全圏から詩を読んでいるつもりが、実は逆で「私」=読者が詩の中の住人だったと気づいたような不思議さがある。こちらの認識を揺さぶられる。地獄という場を通して、詩世界の層と現実の層と地獄の層を力技で重ねに来ていて、ダイナミックだと思いました。

安里:難解っちゃ難解ですね。

本野:でもいまライブ感あって良かったですね。

郡司:謎は多いですね。冒頭の「二人の女」も以降出てきませんし。

安里:うん。だから大成功なんでしょうね。この詩は。「意味ではない」というと便利な言葉なんだけど、情報を伝えるための詩ではない。理容院が出てくる理由もわからないです。地獄のイメージとして二重らせんとか折鶴の首はわかるんだけどね(笑)。

郡司・本野:うんうん。

 

総評

郡司:今日の会の全体的な感想にいきたいと思います。

本野:楽しかったよね。

郡司:いや、お世辞ではなくて(お世辞だったら問題)ゲストが安里さんで本当によかったと思いました(笑)。

安里・本野:笑。

本野:間違いない。

郡司:繋がりのないガチ詩人の方を突然呼んでしまったら、あまりに共通の読み文脈が少なくて、ここまで読めなかったと思うんですよ。短詩界隈にいてかつある程度射程を広く物を読んでいる安里さんだからこそ、楽しく読めたと思います。同年代を呼んでも読みの感覚が近すぎて良くないと思ったので、少し先輩の安里さんに引き受けてもらえて助かりました。

本野:詩集を読むのは難しいね。俳句とか短歌ならどこがポイントかわかるけど、詩だと使う筋肉が違うから手探りになる。でも、色々見つけることができて良かったです。散文詩と改行詩の違いも。あと、今日一番勉強になったのは、汗腺の話(笑)。

郡司・安里:笑。

本野:汗腺の話は最高だね(笑)。

安里:僕も勉強になりました。「絵の中の美濃吉」とか特に好きで、自分ではかなり読み込んでいるつもりだったけど、未必の故意のところは話しながら新しい気づきがありました。語りの位相についても。短歌俳句を読むと、批評的な見方になってしまうからどうしても力量の話になるんだけど。

郡司:笑。

安里:笑。わかるじゃないですか(笑)。現代詩を描く人のノリがわからない分、楽しくやれましたね。

郡司:はい、みなさん今日は本当にありがとうございました!

安里:お呼びいただきありがとうございました。創刊号の発売が楽しみです。

【番外編】郡司和斗『遠い感』を読む【歌集短評+座談会】

本記事は焚火第3号に収録された〈郡司和斗『遠い感』を読む【歌集短評+座談会】〉を再掲したものです。批評会の開催をきっかけに無料で期間限定公開します。しばらくしたら気分で記事を消去します。

閲覧時間目安:文字数約3万5千字。

 

参加者:ササキリユウイチ・塚本櫻𩵋・中矢温・白野・橋本牧人・郡司和斗

 

【ゲスト参加者紹介】

ササキリユウイチ 

一九九八年生。第一川柳句集『馬場にオムライス』。第二川柳句集『飽くなき予報』。川柳句会ビー面。

中矢温(なかや・のどか) 

一九九九年生。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。全国俳誌協会第三回新人賞鴇田智哉奨励受賞。第十三回石田波郷新人賞大山雅由記念賞受賞。俳誌「楽園」同人、現代俳句協会青年部員。

白野(しろの)

二〇〇一年生。新潟大学俳句・短歌会出身。「ひねもす」同人。第六回笹井宏之賞大賞受賞。

橋本牧人(はしもと・まきひと)

一九九九年生。「つくば現代短歌会」(筑波大学)を経て、俳誌「楽園」「南風」、歌誌「未来」所属。

 

【同人紹介】

塚本櫻𩵋(つかもと・おうぎょ)

 料理が超上手い俳人。

郡司和斗(ぐんじ・かずと)

 『遠い感』の著者。

 

 

パートⅠ【歌集短評】

逆張りのリテラシー、リテラシーの逆張り ササキリユウイチ

人の人生振り回しながら生きたいとちょくちょく思う風の屋上 
僕のせいで苦しむ人がいてほしい電気ブランのように眩んで 

風の屋上にいた頃から未だ張り付いている欲望は、折りたたまれた性欲よりももっと、トガることとは逆の側にあり、遠い。やや落ち込んだように見える顔。

トガッていたいと思い続けること 光の逆説をチェック
雪国で雪のアンチをやっている財布に温泉の領収書 

「国会議事堂」近辺にまだ容易にアクセスできたころの食券(〈しばらくは洗濯物とともに干すしなしなの食券とお財布〉)を持つような生活圏に居た頃から時は経ち―頁数が増え―雪のアンチとして相変わらずまたしなしなになるであろう領収書を入れている。

いくつまでゆるされキャラでいけるだろうアパートまでの葉桜の道 
少しまってやっぱさっきに打ち上がった花火が最後じゃんかと笑う 
雷が光って音がするまでに 水商売を憎んでいた時期 
1円玉二枚をずっとポケットのなかでいじっている 朧月 
輝きが視界の隅でかがやいてだんだんみえてくる夏の川 
殺すよ(暗黒微笑)ってほんとはどんな顔をしてわたしは書いた? 朝の雷 
片思いのままいくつかの片思い 冬の桜の木をかいでいる 
人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜? 
Adoのサインは欲しい欲しくないのレベルじゃない 氷柱越しに見る月 

四季のアンチをすることが逆張りに還元されてしまうとしたら、という留保が浮かぶくらいに、逆張りというカテゴリーは広く執拗だ。四季へある態度を取ること自体が順であるから、四季のアンチは逆ではない。私は、四季に無関心であるし、この態度を相対化できていないため、歌集に穴埋―答え、フィラー、スキャットといった語群を念頭に―のように配置された四季的なもの(強調ササキリ)の数に驚かされた。

あ、まだ学生です。ええ、でも誰かのためになにかしたくて毎日震えています 

私が無関心であるところの四季で埋められた穴と、逆張りか否かと訊くまなざしの意識との内で、こうしたものがすっかりと取り払われた「そういうひと」の章における揶揄の調子が、装丁のあのカラーに包まれることにより、最高度の戸惑いを読者に与えるだろう。無論、無視は可能だが。常に読書体験が割を食うものであるという恐ろしい事実を、これだけポップに、正確に言えば暗に伝達しうる。これが『遠い感』の美点に違いない。
以上のような、逆にまつわることからは離れた連作として見えてくる「the habit of being」にも、〈少ししてから見上げるとふやけてる鱗雲あるいは友情観〉との時間の表現が素晴らしい歌があるわけだが。

消化器を抱いていないと青空に落ちてゆきそう 見ていてほしい 
海になつかしさを感じているうちはほんとうのさようならは言えない
ンゴねぇと言われても困るンゴねぇ そういうノリが大切だった 

この辺りに、やっと真顔が見えてくる。特に「ンゴ」の歌はしっかり、そういうひとというよりも、こういうひとの真顔だ。この手の歌が、捉えたはずの戸惑いへの視線を巧みに外す。ともあれ、リテラシーとは、ドミンゴ・グスマンを知っているかどうかなどでは全くないのだ。

 

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季感について 塚本櫻𩵋

本歌集が言いたいところの「遠い感覚」は季感を裏付けして想起されるあらゆるものへの距離という含みがあった。といえるほどに季語を取り入れた歌が多かった。(作者は蒼海俳句会初期からの会員として俳句を書いている。)単に季の不可逆性が時間的な「遠い感」を呼び起こすだけでなく、季感という微妙なトリガーによって感情や関係までもが遠くなったり近くなったりする。地球からみれば火星は遠いが、時として隣に座る家族の心が何億光年も離れたところにあるように感じることがある。これらは相対的な「遠い感」であり、絶対的に遠いもの、たとえば、縄文から現代など、わかりやすい距離としては書かれていない。作者が、季のうつろい、歌のきっかけとしての季語を書きたがる傾向にあることには、「近いものの遠い感覚」を掴みたいというような思惑があるように思える。これは俳句的な思考とも言える。 

春日さす父の机の引き出しをあければ歴代の携帯電話 
春の雨降やむまでを電話のない電話ボックスの中で待ってる

「春日さす」俳句的上五の展開からみせられる家族詠のおかしみ。春の雨の柔らかさと対比させる怪談めいた電話ボックスのセンス。いかにも俳句的な取り合わせ手法。 

今までに見た幽霊を教え合うソファーに夜の風はあたって 
みづうみの思ったよりも水面が汚い春は駅のすぐ隣  

「幽霊(季語とされる場合もある)」と「夜の風」で夏らしさをみせる。俳句的な季感の演出方法とは異なる、短歌らしいゆったりさ。次は「春隣」の分解。近年このような季語の分解型は流行っているが「駅の」という具体性は短歌ならではか。 

目薬をいつから好きになったっけ桜の夜のしみる目薬 
いくつまでゆるされキャラでいけるだろうアパートまでの葉桜の道 

桜という繰り返される季節を象徴するかのような季語をトリガーに、過去と未来に向けられた意識の詠みぶり。桜の盛りから葉桜に移り変わってゆくこと、ゆるされキャラを続けていくこと、その絶妙なバランス。

 

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話題提供 中矢温

歌集中の特に好きだった作品を次々と挙げて鑑賞する形式も検討したが、今回は〈「本歌取り」について〉と〈ペアで読みたい歌〉の二つのテーマに絞って、話題提供を行なう。

1.「本歌取り」について
読書量の乏しい私だが、一読時点で先行句が浮かんだ歌が、『遠い感』中に三首あった。
二階から降りてくるこの足音はまだ降る雪に気づいていない
 まだ雪に気づかず起きてくる音か/岩田奎『膚』
少しまってやっぱさっきに打ちあがった花火が最後じゃんかと笑う
 すこし待ってやはりさっきの花火で最後/神野紗希『光まみれの蜂』
じゃんけんにあいこで人に生まれたわ 握れば水になる牡丹雪
 じゃんけんで負けて蛍に生まれたの/池田澄子『空の庭』
この三首のなかでは、「じゃんけんに~」の歌が一番良いと思った。何故なら池田の句は人口に膾炙しているが、岩田と神野の俳句は「本歌取り」するには時期尚早のように思うからだ。
また雪と花火の二首は、先行句を薄く短歌形式に引き延ばした、あるいは省略を補ったような印象も受けたが、三首目の蛍は異なる。上の句の「じゃんけん」から下の句の「握る」が導かれながら新たな展開を見せている。原句の夏の季節感から、春に変えることで、刷新した世界を見せている。
「本歌取り」という話題に言及してみて感じたことは、ただ探すことで手いっぱいになるのではなく、もう一歩踏み込んで、その発見をどう鑑賞に繋げるかの重要性である。
→〈話題提供〉
・    『遠い感』中に、「本歌取り」(短歌、川柳、俳句、詩など)は他にあったと思うか。

2.ペアで読みたい歌
ぐんちゃんと呼んでください 手を後ろに組んでささくれちらちら剝いた
またねって言われてもまだ赤だけど シャツのボタンをくにくに触る

絶版になった十代 まっさらなルーズリーフを空へと放つ
三十代は同時並行の恋らしい 流線形になる建築史

→〈話題提供〉
・    中矢の組合せは意外だったか、それとも納得感が高いか。
・    ペアで読みたい歌は他にあったか。

 

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閲覧性 白野

陽キャとか陰キャとか陽キャは言わないと誰かが言っている陽キャ観
乳酸菌が何億あるか気になり出す主体的・対話的で深い学び
風と風 反復横跳びしちゃうから小学生は暇さえあれば
人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜?
写真を撮ろうよと樹の下にきたメルトでダウンする5秒前

わかりやすい皮肉ならもうそれこそTwitter でたくさん見ることができる。しかし郡司和斗は、評価を保留することで皮肉を寸止めている。言ってみれば皮肉の皮肉である。また、それと地続きに分かることとして、この歌集には「元ネタ」がすさまじい数見て取れる。対象を限りなく批評的に、いや批評的というよりももう少しラフな感じで「閲覧」し、皮肉をしているなーとこっちを安易に関心させてくれない。一定の温度感で語られる世界の全てを把握することは到底できないが、それでもわかるものがあると面白かった。

好きになる人がもれなく丸ノ内サディスティックを歌うのうまい
本当に楽しい飲み会のあとの楽しい頭痛ずっとつづけよ
あせりたいあせりたくないフロントの自動演奏ピアノはきれい
ピースって何年ぶりにやったっけ中指がもう見ていられない
ベーコンの厚みのようなよろこびがベーコンを齧るとやってくる

先に引いた歌は全て連作「accomplice 」にまとめられているものである。閲覧性(← 造語です)が光る一方で、I収録のこの連作には新鮮味を感じた。結構言葉が言葉を呼んでいるというか、リズムにのってばんばん言葉が引き出されている連作だと思う。批評性というより、ここではごく個人的なものを感じる。歌集の根底を流れる閲覧性(あるいは批評性)も、このリズム感覚によって引き出されているものだとしたら……と考えるとまた別の怖さがやってくる。

じゃんけんにあいこで人に生まれたわ 握れば水になる牡丹雪
咳をするひとを見ていたら目が合って歴史では拾えない牡丹雪/瀬口真司「パーチ」

一の歌を読んだときに真っ先に思い浮かんだのが2の歌。①は有名な俳句の本歌取りだと思う(この歌集は本歌取りが多く見られる)。郡司の歌の初出は二○二一 年十二月八日、口語詩句投稿サイト72hにて発表されていた。瀬口の歌は二○二三年冬に刊行された『ねむらない樹』第五回笹井賞受賞作がおそらく初出である(間違っていたら教えてください)。

 

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ぼくの『遠い感』 橋本牧人

 第一歌集! として世に問われることになる歌集は、えてして作者の短歌との出会いの衝撃と彷徨を色濃く残している。短歌自体はもちろん、『遠い感』のように編年体の歌集は、連作の排列がそのまま作者の短歌との馴れ初めを教えてくれるのだ。
 郡司和斗は高校時代に作歌をはじめ、大学に入学して間もない二〇一九年に短歌研究新人賞を受賞した。その後も結社、学生短歌会、都内のノンヒエラルキーの歌会等のあらゆる場所でさまざまな経歴をもつ歌人と関わりを持ち、影響を与えあって来た。もちろん、俳句コミュニティとの交わりも大きいだろう。
 そういった作者の背景をぼくは知っていたから、ぼくが初めて本書を読んだときもっとも強く思ったことは、この時代に〝口語〟短歌を作り始めた人間が作風を変えられていく力に対する共感だった。
 ある意味で歌集に強烈に作者の実人生を読み込む邪道な読み方だし、郡司と同世代で同時代に短歌を始めたぼくの特権的な読み筋ではあるだろう。とはいえ、若くして受賞した短歌研究新人賞受賞作を巻頭に据え、それからの作風の変貌がこれほどまでに多様な歌集は少ない。
 この視点、つまり、郡司和斗が同時代の短歌(俳句)と接触した結果、どのようにその歌を変貌させられてきたのかを読みといておくことは、現代の短歌プレイヤーがゆるく共有している心性に迫ることにも繋がるだろう。
 また、逆に問われるべきなのは、なにが変えられなかったのか、である。そしてそこに『遠い感』本来の魅力をぼくは読み取っている。
 もちろんこれは必ずしも一定の主体像が存在することを意味しない。本書は、様々な手法やモチーフを換骨奪胎しながら、多様な歌世界を作り上げた。だが、それを繋ぎ止める芯があるからこそ、歌世界は歌集としてかがやきを見せてくれる。それはいったい何か。
 座談会では、実際に『遠い感』の歌ひとつひとつを読解しながら、この二つの問いについて考えてみたい。

 

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パートⅡ【『遠い感』批評座談会】

※縦書きの記号が変に表示されていますが気にしないでください。

※あくまで紙ベースで読まれていくことが前提の編集です。

 

八百字程度で簡単な感想を書いてもらうようにお願いした歌集短評を互いに読み合ったうえで、『遠い感』の批評を行った。(二○二四年三月収録)

 

郡司:本日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。焚火第三号に掲載するための『遠い感』感想戦ということで、櫻𩵋くんと僕で何人か候補を挙げまして、今回は僕とフィジカルでの関わりが割と多めにある人に声をかけさせていただきました。

櫻𩵋:ありがとうございます。

郡司:はい、で、最初いきなり集まって話してくださいと言っても行き詰まってしまうと思って、最初八百字くらいの感想文資料を書いてもらいました。それをお互いに読み合いながら、色々と喋ってもらえればと思います。では、ここからの司会進行は櫻𩵋くんにお願いします。

櫻𩵋:よろしくお願いします。今日は僕が取りまとめということですが、ぜんぜん自信がないので笑。みなさんに助けてもらえればと思います。最初は自己紹介からお願いします。Zoomの名簿順で。

中矢:俳句結社「楽園」所属の中矢温と申します。『焚火』第一号に俳句を寄稿させていただいた縁で今回呼んでいただけたのかなと思っております。どうぞよろしくお願いします。

ササキリ:ササキリユウイチと申します。川柳をやっている、というくらいですかね。郡司くんとは同じくらいの歳です。よろしくお願いします。

橋本:橋本牧人です。僕も郡司と同級生くらいだった気がします。中矢さんとも同級生くらいなので、ササキリさんも入れてここ四人はみんな同級生ってことになりますかね。つくば現代短歌会出身、「楽園」、「南風」、「未来」所属です。櫻𩵋さんとは「薪の会」で縁があります。よろしくお願いします。

白野:白野と申します。普段は短歌を書いています。とても緊張しているのですが、足を引っ張らないように頑張ります……。

櫻𩵋:白野さん、ちなみに綱長井ハツオくんとは知り合いだったりしますか。

白野:新潟大学俳句短歌会で一緒に活動してます。

櫻𩵋:そうなんですね。一度、俳誌協会新人賞で一緒に受賞したことがあって。

白野:あ、そうなんですね。それはそれは。

 

◎本歌取りと閲覧性について

櫻𩵋:では、まずは今の挨拶の順番くらいで資料を読んでいきますかね。

橋本:話題としては、中矢さんと櫻𩵋さんが俳句的なアプローチで揃っている感じですね。

櫻𩵋:そしたら中矢さんお話いただいてもいいですかね。

中矢:はーい、よろしくお願いします。私ひとりだけたぶん資料の方向性が違っていて、鑑賞というよりは話題提供に努めました。話題提供のテーマは二つあって、一つ目は本歌取り。ひとまず三首ほど気がついた歌を持ってきました。〈二階から降りてくるこの足音はまだ降る雪に気づいていない〉、〈少しまってやっぱさっきに打ちあがった花火が最後じゃんかと笑う〉〈じゃんけんにあいこで人に生まれたわ 握れば水になる牡丹雪〉。これらの歌を本歌取りだと仮定して、その上でどの歌が特によかったか考えました。私自身は俳句屋さんなので、短歌・詩・川柳とか他の方面の方々の色々が気づきを伺えたらと思っています。白野さんの資料を見ていたら、瀬口真司さんの〈咳をするひとを見ていたら目が合って歴史では拾えない牡丹雪〉があったので、白野さんの資料の中でもこちらの本歌取り的な話題を拾ってもらったのかなと思います。

櫻𩵋:そもそも、白野さんが書いてくれた資料の「閲覧性」という言葉が、元ネタとか本歌取りをテーマにしていますよね。

橋本:俳句でいうと、〈消毒液まみれの地球 その少し離れたところにある冬の月〉がそうだと思うんだけど。誰の句だっけ。

櫻𩵋:〈水の地球すこし離れて春の月/正木ゆうこ〉ね。これはそうだね。

ササキリ:浮かんだもの、何もなかったですね。一切ないです。

橋本・櫻𩵋:

櫻𩵋:僕もあんまり思わなかったかな。本歌取りっぽいところはあるんだけど、あまりにも軽くやっているというか。個人的には白野さんの資料を詳しく聞きたいです。

白野:俳句はあまり詳しくないんですけど、短歌の方もこの短歌を踏まえているのかなとかは、私の知識不足もあってかあんまり見えてきませんでした。資料を作るときのメモで、〈瀬口さんと共通したものを感じた〉と書いたんですけど、挙げた短歌については郡司さんが先に発表されているので、これは別に元ネタにしたというわけではないんですよね。それで、本歌取りみたいな話については、資料で〈写真を撮ろうよと樹の下に来たメルトでダウンする5秒前〉を引いたんですが、この歌に関しては元ネタまみれだと思いました。好きな歌なので言いたいことがすごくあります。まずこの歌には、ボーカロイドの曲が織り込まれていますよね。下の句から「メルト」と「炉心融解」。「メルト」も「炉心融解」も時期が近いので、連想しやすい。それで、文の構造に「MajiでKoiする5秒前」を借りてきている。また、この歌の前には〈結局はみうちびいきが名盤を生み出すための夜桜なのか?〉があることから、〈樹〉は桜の可能性が大きい。あと、私、「メルトダウン」の意味が正確にはわかっていなくて調べたんですが、発達障害等を抱える方が状況を整理できずにパニックに陥ることも意味として指すそうで、そういう方が桜の樹の下にいる状況が想像できます。だから、まとめると、写真を撮ろうと言われた発達障害持ちの人が少しパニックになりながら桜の樹に来ているようにも読めました。そうすると、梶井基次郎の『桜の樹の下には』を踏まえた可能性も出てくる。平成初期の恋の曲の感じを借りながら、現代において恋愛的な状況に情報処理が追いつかずパニックを起こす方向になってしまうというのが、なんでしょう、皮肉を皮肉で包んでいるなと思ったところです。

櫻𩵋:紐解いていくと凄まじいネタ数だな。本歌取りについて考えてしまうのは、そういう凄まじい数の元ネタがあると感じるから、考えてしまうのかもしれないですね。どうですか、中矢さんに戻って。

中矢:そうですね。私はボカロを含め芸能を全く通らずにここまで来てしまったので、「メルト」はわかるくらいの無知さです。だから、今の解説を聞いて、すごくこの一首が賑やかになりました笑。古典の授業で本文書いて、品詞に分けて、名詞や助詞助動詞の意味を書くみたいなことを先生がしてくれたような感覚です。

私は俳句という点から、これらの三首にピンと来たのですが、ボカロが好きな人ならこの歌が、アニメが好きな人ならこの歌が、みたいな感じの閃きが、読者個々人によって変わってくるんでしょうね。そこがなんというか、読者が「自分だけは気づいたぞ!」という特別感を感じられて嬉しい歌集なのかなと思いました。自戒を込めて敢えて言うのですが、本歌取りって、元の作品を知っているというだけでは知識の披露みたいになってしまって、深い鑑賞にはならないのかなと思ったのですが、まずは誰でも自分が知っていることをフックにして味わえることは、素朴な喜びがある気がしてきました。

櫻𩵋:白野さんも書いているけど、網羅は不可能だけど、気づくと嬉しいみたいな読み心地はあるのかもね。

ササキリ:白野さんの資料で気になったの点について言わせてください。「言ってみれば皮肉の皮肉である。また、それと地続きでわかることとしてこの歌集には元ネタが凄まじい数見て取れる」というところなんですが、「皮肉の皮肉」の「地続き」というのがどういうことなんだろうと。何が地続きなんでしょう。

白野:何か対象があって、その対象を一歩引いた地点から見る、というところから「地続き」が生まれていると思っています。元ネタがあると読者が認識できるということは、一歩引いている視点が歌集にいくつも見られるからそう思うことができるのだろうと。なんて言ったらいいんでしょう……。

ササキリ:少しパラフレーズすると、あれですかね、元ネタがたくさんあるということ自体が、皮肉の皮肉っぽいということを言っているんですかね。

白野:そんな感じがしてきました。うーん。でももうちょっと。

櫻𩵋:読み取れる元ネタそのものに皮肉性があるから、それを皮肉ってるみたいに思えるってことですか。

白野:それが近いかもしれないです。「それと地続きにわかることとして」というより関連して喋りたいこと、というくらいのニュアンスです。

櫻𩵋:ササキリさんどうですか。

ササキリ:うん、そういう意味で仰っているのだとしたら、疑問解消。すこぐよくわかる。と同時に、その先も白野さんは言っていますよね。「批評的というよりはもう少しラフな感じで閲覧し」と。この歌集を読んだ白野さん自身が、閲覧側に持っていかれているという。この資料を読んでいる身としては、皮肉の皮肉の地続きで、歌集を読んでいるこちら側が気づいたら閲覧自体になっている、ということを言っているのかなと思ったんですけど。この歌集がそうさせてくることは十分納得できるし、おもしろかったですね。

櫻𩵋:閲覧側に持っていかれる。なるほど。そういえば中矢さん、もう一つ話題提供ありますよね。

 

◎歌をペアで読むと気づくこと

中矢:はい、「ペアで読みたい歌」というのがもう一つの話題提供です。他の皆さんが5首くらいの単位で引用をされているので、ちょっとペアに限定したのはよくなかったかなと今更ながら思っています。でも私はペアで読みたいと思いました。まずは、〈ぐんちゃんと呼んでください 手を後ろに組んでささくれちらちら剝いた〉と〈またねって言われてもまだ赤だけど シャツのボタンをくにくに触る〉。これらは緊張とは不安とかの心理がどう身体に出るかで結んでいる歌かなと。それぞれ小学生くらいの状況と高校生大学生くらいの状況かな。成長して変わったことも多いけれど、さり気なく繋がりが見えてくる像がある。一冊の中に無理に一人の作中主体を固定しなくてもいいんですけれど、流れている時間や変わるもの変わらないものをこのペアでは汲んでみました。あとは、〈絶版になった十代 まっさらなルーズリーフを空へと放つ〉と〈三十代は同時並行の恋らしい 流線形になる建築史〉。これはそれぞれ十代三十代というキーワードが重なっていて、そこの間に存在する二十代が逆説的に浮き上がってくるのが面白かったです。

櫻𩵋:ペアではないんですけど、うっすら歌の繋がりがあり続ける感じはしますね。橋本くんは何かあったりしましたか。

橋本:ない

櫻𩵋・橋本・郡司:笑

橋本:申し訳ない。この歌とこの歌、ってのは僕はなかったな。

郡司:地味におもしろくて、中矢さんに聞きたいんですけど、一首一首は歌集の中で連作という単位で載っていて、連作のまとまりで読むことには形式上の必然性はあると思うのですが、どうしてペアで読むという問いが出てきたんですか。三首とか五首ではなくて。

中矢:一つの可能性としては私の頭がよわよわで、一度に考えられる限界が二首だったのかもしれない……。うーん、三つとかも面白かったかもしれないですね。そもそもこの話題提供を行なったのは、作者が用意した連作は連作として味わうとして、そこから任意の歌を取り出して、別の間テクスト性を味わうのは、一応読者の特権かなと思って、このような話題提供にしました。で、幾つでもいいのに二首にした理由は、たぶん読んでいて自然とオーバーラップしながら考えられるのが二つなのかなと。私の脳の容量……。以上です……。

櫻𩵋:ちょっとわかって、読んでいて感じるフィーリングって、その前にも読んで感じていることが多い。たぶんなんだけど、中矢さんが引いたペアって、後ろのページの歌を読んでからページを遡って読み返して、ペアを見つけていると思うんですよね。漢文のレ点みたいな感じで味わっているのではないかと。

中矢:そうですね。レ点で読みたい歌というトピックにすればよかったです笑。私が引用したなかだと、〈ぐんちゃんと呼んでください 手を後ろに組んでささくれちらちら剝いた〉と〈またねって言われてもまだ赤だけど シャツのボタンをくにくに触る〉の歌はどちらかというとレ点的な組み合わせの意外性のあるペアをできたかなと思います。八百字の事前の鑑賞文を提出した後に気が付きましたが、栞文を執筆された瀬口真司さんも〈性欲を折りたたむときぶあぶあと植物園の匂いがよぎる〉と〈食後にあけたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いてる〉の二首を加えた四首をセットに引いて、「あざといと言ってもいい。だがこのように、もじもじと照れて戸惑い居心地悪そうにしている瞬間にこだわりがある歌人である」と言及されていますね。

ササキリ:脳の容量という観点はおもしろいですね(結局、われわれはこの歌集を読むときも、あるいは制作をするときも、脳を抱えています。この脳という素朴な問題は、重要なはずです)。本当にそうだと思いますよ。抱えてられる像が三三つ以上は難しいという。本当にそう思います。

郡司:ワーキングメモリのIQが160とかないとたくさんの情報を抱えたまま読んでいくのは難しいかもしれないですね。

櫻𩵋・ササキリ:

ササキリ:揮発性(※外部からの給電が途絶えると、記憶していた内容が失われるような記憶装置のこと)だから笑。私あれよ、中矢さんの資料に従って真摯にペアを引いてきたんですけど。

櫻𩵋:おお、ほんとに。

ササキリ:フリスビーの軌道のようなやさしさを受け取ってまた投げかえす朝〉と〈今日はよく喋るね、何か良いことでもあったの 鎖鎌の気持ちで

櫻𩵋:笑。いいね。

ササキリ:もちろん、飛び道具という接点もあるんですけど。

郡司:飛び道具笑。

ササキリ:これも結構〝遠い感〝な気がして。この一首目のほうは、凄く適当なこと言っちゃうと、この語に留保しつつ、ケアなんだけど。やさしさと言うくらいだからね。でも、距離がある。この距離はしかるべきものだろうか、とも思う。二首目は、気持ち悪く、こう、湾曲した鎌を喉元に当てて追い詰めるような、ないしは遠くからでも暴力を振るえるような感じ。でも〈今日はよく喋るね〉と話しているときって、物理的には凄く近いところいるんだけど、それでもなお飛び道具で……。遠い。遠いことは共通している。ケアと暴力ってところが対比的でペアと言える。うん、そんな風に思って挙げてきました。

櫻𩵋:二首目が〝遠い感〟ってそうだなあ。嫌味っぽくなくナチュラルに言って、最後に飛び道具が出てくるっておもしろい。

橋本:僕も今考えましたよ、二首。〈一人だけの民族みたいはなびらをひたいにつけて踊るあなたは〉と〈オフィーリアのように、とか俺が言っていいのか 高画質の心エコー図〉これは数十分後の未来の僕が上手く喋ってくれることに任せていることでもあるんだけど、この歌集のページ8とページ139の郡司和斗は全く違うんだよねってことを話したくて。さっきササキリさんが引いたペアの歌の郡司和斗もぜんぜん違うと思うんですよね。僕がここで引いたペアはそれが顕著に現れていると思うんです。つまり、ページ8の郡司和斗は、〈一人だけの民族みたい〉ってなんの衒いもなく言えるんですよね。民族って結構センシティブな語だよなーとかちょっと思ったり。一人だけの民族であることは肯定的に詩にしていいのかとか。あるいは〈はなびらをひたいにつけて踊るあなたは〉と、本当に輝きしかないような措辞の使い方。言葉の使い方にためらいがないんですよね。この一方で、ページ139では、自分に対する批判の目線が入ってくる。これはこの歌集で重要な転換だと思う。オフィーリアのモチーフは古くから絵画なんかでも用いられて、一首目と同じように女の子や花びらのイメージを多く伴うと思うんだけど、この二首を比べたときの、表現に対する慎重さみたいなものは対比的なところがあって、引くならこれだなと思いました。

櫻𩵋:マッキーの中ではこの二首のような変化が『遠い感』の中に顕著にあったんだ。

橋本:僕はそれを後で上手く僕が話してくれるのかなと期待しているんだけど笑。未来の自分に。

櫻𩵋・橋本:

中矢:橋本さんに一点失礼します。「ページ8とページ139の郡司和斗は全く違うんだよね」と言ったときに、詠んでいる郡司和斗が違うのか、作中主体の郡司和斗が違うのか。作者と作中主体を敢えて繋げる読みという、友人だからこそできる読みを考えたときに、どういった読みが良いと思って提示されているのか、ちょっとだけ先に考えを知りたいです。どんな感じでしょう……?

橋本:そこは〝とぼけながら読む〟ことになるかもしれないな……。

櫻𩵋:とぼけながらってのは、わかってるけどわかっていないふりをするってことですか。

橋本:そうそう。今この瞬間だけ僕は〝主体〟とか〝作者〟がわかんなくなるということをする。だから、一旦そこの読みの倫理は保留にしたい。でもおもしろく読める感覚が俺にはある。これは郡司がぼくの友達で、郡司の同人誌に載る座談会だからこそできる特権的な読みではあるんだろうけど。

櫻𩵋:白野さんはどうでしょう。

白野:シャンプーをしたあとすぐにシャンプーをしたのかどうか忘れてしまう〉と〈本当に楽しい飲み会の後の楽しい頭痛ずっと続けよ〉。そうですね。これは今見つけた組み合わせですけど、それぞれ別の連作に入っています。どちらの歌も同じ単語が二回出てくる点で選びました。リズムがちょっとラップっぽいというのかな。後ろでブンブンみたいなビートが鳴ってて、勢いによって言葉が流れてくる感じ。言葉の勢いに乗ってボンって言葉が出てくる雰囲気が両方に感じられて私は好きで、この二首を選んでみました。あと今気づいたんですけど、どっちも頭のことを言っているなと。

櫻𩵋・白野:

櫻𩵋:なるほど、鋭い笑。

白野:頭痛もシャンプーも状態を意識化することがあまりないというか、頭痛だなー、シャンプーしてるなーってわざわざ考えることも少ないと思って、主体が頭痛やシャンプーそのものに持っていかれるところも共通点としてあるのかもしれないと思いました。

櫻𩵋:ありがとうございます。さて、どうしましょう。マッキーに話もどる?

橋本:いやーどうしよう笑。むしろみなさんに問いたいというか。

櫻𩵋:じゃあ、最後にしますか。

橋本:ありかなと。

 

◎『遠い感』の季「感」

櫻𩵋:では、俳句屋さんの続きとして僕の話を少ししましょうかね。僕はぜんぜん短歌も書いてないし、詩も川柳も詳しくない、純粋な俳句屋さんなんですけど、郡司くんと同じ俳句結社に入ってて郡司くんの俳句作品をこれまで割と読んできたので、俳句的な側面から、〝郡司和斗〟が詠んだものとして歌集について資料を書かせていただきました。主に書いたこととしては、さっきササキリさんも言ってましたけど、『遠い感』の〝遠い感〟みたいなところや季感、取り合わせの距離で俳句的に読んでいくとおもしろいかなと思いました。ちょっとふつうに資料読みますが、「季感というきっかけによって感情や関係が遠くなったり近くなったりする」というところを言いたかったです。「地球から見れば火星は遠いけれども、近くにいる人を遠く感じることもある」、わかりやすい〝遠い感〝ではなくさっきの鎖鎌の話みたいな、複雑な〝遠い感〟があったということですね。そこに季節の歌が多くあって、帯にある〈今までに見た幽霊を教え合うソファーに夜の風はあたって〉とかも夏の季感にあふれた歌ですけれども、季感を通してものの距離とか、人の心の距離感とか、そういうものを掴みたがっているのかなと。非常に俳句的だなと思いました。僕も図らずとも資料に二首づつ取っているんですけれども、〈春日さす父の机の引き出しを開ければ歴代の携帯電話〉〈春の雨降り止むまでを電話のない電話ボックスの中で待ってる〉。春日さす、なんてとても俳句の上五的な展開ですけれども。また、春の雨と電話ボックスも俳句的二物衝突な取り合わせに見えます。そのまま省略して俳句に作り変えることができそうなくらい。あと、少し技術的なところになりますけど、〈今までに見た幽霊を教え合うソファーに夜の風はあたって〉〈みずうみの思ったよりも水面が汚い春は駅のすぐ隣〉、こういう、直接季語は用いないけどなんとなく季感は察してね、みたいな読みぶりについて、季語「春隣」を分解して〈駅〉を挟みこんで使うみたいな思惑は、完全に俳句的な文脈から吸収されているところかなと。最後、郡司くんの季感についてなんですけど、桜の歌について、〈目薬をいつから好きになったっけ桜の夜の染みる目薬〉〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉。再読に耐える作品というか、繰り返される季節の季語を自分の時間と照らし合わせて読むみたいな季感の捉え方、もちろん短歌だから短歌的な歌集なんだけど、物凄く俳句的な歌集だったなと思います。季語がある歌について俳句的なコードで解釈・鑑賞可能なものが多い。新人賞受賞のころから季感が冴えているとは言われていたけど、歌集一冊まとまった状態でも、個性・強みとしてそれが現れているところだなと思います。ちょっともう自分の資料全部読んじゃったんだけど、すみません笑。個人的に聞きたかったのは、ササキリさんの資料でも季感について書かれていて、考えを伺いたいなという。

ササキリ:あー、季感。そうですね。私が資料をみちみちに書いてしまって悪いんですけど。それは置いといて、塚本さんの資料に話を戻しつつ。例えば、塚本さんの資料で凄く疑問に思ったところだと、最後に引かれた葉桜の道の歌二首について、「絶妙なバランスで成り立っている」というところです。どういうバランスのことなのか私にはよくわからなかったです。私が、感想文で書いたところで言うと、「穴埋め」「フィラー」「スキャット」のように季感の言葉を感じたので。〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉でいうと、葉桜の道というのは、上の句の感情をはぐらかすようなものとして置かれているように(すなわち、上の疑問の穴埋めに、葉桜の道という答えが記入された、と。無論、詩歌において、問いを立て、答えを提示する問答のような構造があるということはわかりつつ)感じるわけです。絶妙、だとは思わない。というか、葉桜が繰り返されることで、ゆるされキャラが出てきているわけではないと読めたんですよね。

橋本:ちょっと喋っていいですか。僕は短歌も俳句もやっているんですけど、僕の立場だと、両方言いたいことがわかるんですよね。僕も近代短歌的な文脈で現代口語短歌で四季的な花とか詠まれると、むむっと思ってしまう側面がある。一方で俳句のコンテクストを踏まえながら、郡司の『遠い感』を読んだときは、すごく気持ちよく読めるところがある。なんだろうな、背負っている文脈の違いで変わるところが大きいと思います。僕にとって『遠い感』の季感は凄く良いものだと思っているんですけど、それはやっぱり意外だからなんですよね。この口語で、この口語というとちょっとアレだな。

塚本・ササキリ:

橋本:ササキリさんが引用したものでいうと、〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉〈人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜?〉とかの絶対に俳句では言えないような、三フレーズ以上ないとできなさそうな世界。それを口語のスタイルで言いながら、花とか季語を付け加えるというのは、僕にとっては凄く意外に見えたんですよね。そういう点で僕はおもしろがることができた。案外、口語短歌の蓄積の中で、こういう形の口語で季感を残すのはあまりなかったんじゃないか。

ササキリ:その話はおそらく、終盤に思い出すとして笑。

橋本・櫻𩵋:

ササキリ:もう一つ聞きそびれたことがあって、中矢さん資料について、話題提供に本歌取りは他にもあったか、と質問があったと思います。中矢さんの表現を借りると〈少しまってやっぱさっきに打ち上った花火が最後じゃんかと笑う〉は薄く短歌形式に引き伸ばされたもので、〈じゃんけんにあいこで人に生まれたわ 握れば水になる牡丹雪〉は新たな展開を見せていると仰ってますけど、そう書いた中矢さんは、ここまでの話をどう聞いていたのだろうというのが、気になりますね。もっと具体的に聞けば、〈少しまってやっぱさっきに打ち上った花火が最後じゃんかと笑う〉はどういうふうに読んでいけばいいんでしょう。

中矢:うーん。〈少しまってやっぱさっきに打ち上った花火が最後じゃんかと笑う〉については、神野紗希の〈すこし待ってやはりさっきの花火で最後〉を知らなかったとしても、花火が主役の歌だと自然と思っていましたね。さっき話題にあがった、〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉については、俳句の二物衝撃という句作技法がありまして、あ、二物衝撃とは、季語とその季語とは一見関係ないフレーズの二つを合わせることで調和や意外性を楽しむという方法のことです。この読み方を援用して、「いくつまでゆるされキャラで行けるだろう」をフレーズとして、「アパートまでの葉桜の道」を「季語」として読みました。あれ、こういう回答でよかったですか……。

ササキリ:なるほど、元ネタを完全に忘却したとしても、ということですね。聞けてよかったです。

 

◎スキャット/フィラー

櫻𩵋:さっきのバランスの話なんですけど、ササキリさんがスキャットのように季語を使っているという話は凄く良くわかります。二分化するのはよくないんですけど、俳句を作るとき大きく分けて、季語を中心に詠みたい人と季語をスキャットにして詠みたい人の二パターンの人たちがいるんですよ。それで、断定はできないんですけど、口語的に俳句をやってる多くの方は季語をスキャットのように使うことで得られるフィーリングを志向してやっている人が多い。僕は郡司くんのこれまでの俳句に、季語をスキャット的に用いる側面もなんとなく見ています。僕は自分の鑑賞では季感を強く意識して、これは季語をメインに捉えて読んでも成立する歌だと思って読んだんですけど、郡司くんがスキャット的に詠んでいてもそれは良くて、そこはなんとなく切り離して読みたい。ちょっとすみません。今自分で話していてグチャグチャになってきてしまっているんですけど、ササキリさんのいうスキャットとかフィラーの感覚で季語が置かれているというのを理解できない立場というわけではなくて、むしろをそれを前提とした上で、歌の中で〝季語〟として成立している側面を見出して資料に書きたかったところがあります。なので、〈目薬をいつから好きになったっけ桜の夜の染みる目薬〉などは、〈目薬をいつから好きになったっけ、うーん、染みる目薬〉とかでも成立するけど、桜の夜が軽く置かれていることによって、むしろその脱力が桜の夜を飛躍させるというか、再読に耐えている。桜というモチーフをよく見れているなと思います。そういう脱力も含めて〝絶妙なバランス〟を感じたということです。ここで桜にフォーカスが当たりすぎると良くなくて、フィラー的だからこそより詩の心が際立つなと。

ササキリ:なるほど。再読に耐える、か。

櫻𩵋:正月とか桜とか、毎年繰り返され目にするものですけど、それでも再読に耐えるということです。

ササキリ:なるほど、そうかー、という感じで、返す言葉はないんですけど。

櫻𩵋:

ササキリ:もっとお伺いしたいんですが、であればむしろ〈結局はみうちびいきが名盤を生み出すための夜桜なのか?〉などをどう読んだらいいんだろうと思ったんですけど、どうなんでしょう。橋本さんに振ります。

橋本:僕の関心は、というか僕のテーゼに立ち返ってしまうんですけど、言い淀んでいる歌だと思うんですよね。そういう側面としてのフィラーである季語みたいな感覚はありますね。

ササキリ:(「終盤に思い出すとして笑」などと言いながら、また戻ってしまいそうか!と思いつつ)瀬口さんの栞文がちらつくけど、疑問文が多いという指摘。帯にも〈重要なのは問いの質だ。それは矛盾を抱え続けることで鍛えられる〉とか書いてあるけど、もしかしたらそれに引き出された語彙かもしれないけどね、私のフィラーとかスキャットとかの語彙は。そのあたりは、みなさん腑に落ちているところですか。質問を変えると、瀬口さんは季感とかの話には栞で触れなかったですけど、「僕はここで同時代/同世代の読者の代表として先行する作品からの引用やインターネット・ミームの詳らかな解説をあえて行わない」、あえて行わなかった解説に、果たしてこの季感の話は含まれていたのだろうか、という(これに、まったく瀬口さんの栞文への至らない点の指摘等といった含みはありません。むしろ、グッジョブすぎる)。どうでしょう。

櫻𩵋:他の歌と繋げるんだけど、〈人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜?〉や〈結局はみうちびいきが名盤を生み出すための夜桜なのか?〉の桜の歌で、両方疑問文ですよね。桜というトリガーで自分の中のわからないものをなんとかさせたいみたいな、桜がこの歌集の何かのきっかけになっているのはわかります。桜に疑問文を背負わせることで、疑問文を脱臭したい、軽くしたいみたいな。

ササキリ:わかります。だからそのね、桜で、お茶濁し、お茶濁し……というのかね。

中矢:「季語に託す」という言い方だとササキリさんの仰りたいこととニュアンスが違ってきますかね?「お茶濁し」は……ちょっとチクチク言葉が過ぎる笑。

郡司・櫻𩵋・橋本:

ササキリ:要するに、……そうか、ごめん。お茶濁しはだめか。要するに、お茶濁しというか、私はこの季語を、例えば白野さんのいう「皮肉の皮肉」の「地続き」として見ているんですよ。ちょっとまって、今の、私のお茶濁しを、みなさん的にはどう解釈された感じですか。

櫻𩵋:だから、スキャットとか意味のない言葉とかそういう感じで。

橋本:そうなの?

櫻𩵋:うん? うん。

橋本:季語に託すっていうのは、俳句が十七音しかないことによる意味の含ませ方で、その方向に話が行っているのかと思った。だからむしろ、無であることよりも意味の膨らみの方に。

ササキリ:そっちの意味でお茶を濁すだと、無っぽくて良くないって話か。

櫻𩵋:うん? うん。

橋本:あれ、僕たちって今、会話ができてます?

全員:

郡司:お茶を濁すのニュアンスが両極で話している?

橋本:ササキリさんが徹底的に俳句の文脈を担っていないと思うんですよね。だからそこで中矢さんや櫻𩵋さんと話が噛み合っていないのかなって。ササキリさんは、ボカロとか他の言葉と同じゾーンで季語的な言葉を見ていて、中矢さんや櫻𩵋さんはどうしてもやっぱり季感、俳句独特のコンテクスト性を読んでいる、という整理であっている?

櫻𩵋:合ってる合ってる。俳句的な季感や取り合わせによって生まれる季語の強さみたいなものが若干もうないものとされていて、季語的な力を担っていない音数(お茶濁し)として置かれているという話だったと認識してる。

ササキリ:うーん、なるほど。わかりました。

櫻𩵋:ササキリさん的には、〈葉桜〉と〈ルカルカ★ナイトフィーバー〉がまったく同じように見えているということですよね?

ササキリ:まったくそうですね。

橋本:そうなのはすごいな笑。

ササキリ:「この歌集には元ネタが凄まじい数見て取れる」(白野)の、この凄まじい数の中に〈葉桜〉がカウントされています。

櫻𩵋:それがおもしろいですよね。

ササキリ:なんでかというと、いや、なんでかを喋れるわけではないんですけど、例えば、花火を見に行くことをひとつ取っても、花火が夏かどうかということよりも、行く人、行かない人、行かないしアンチの人というものが存在しています。て、恋人とか、大学のサークルのみんなとかで花火に行く、という文脈を背負っている〈花火〉というものがあります。で、この花火大会に行く行かないの逆張りが発生しているということがありますよね。ボカロとかの元ネタの話も、ミームとかコピペを使ったり使わなかったり、嫌ったり嫌わなかったりという態度の話があったりして、それと地続きに見ることができます。四季に対して、ある態度を取ること自体に逆とか逆じゃないとかこの歌集を読んだ人は思い至るのかなと、思ったりする、ということですね。この歌集を読むと、四季もボカロとかコピペとかと同列になって、ある種の逆張りか逆張りじゃないかという選択をする地点に立たされるんじゃないかということを、私は言っています(そして、それは一旦立つというだけで、最後までそこに立っているわけではない、ということも同時に言っています)。

櫻𩵋:うーん。

ササキリ:だから、さっきの白野さんのやつも、地続きにわかることとしてという部分にとても引っかかったんですよね。そうさせるんですよね。閲覧。

櫻𩵋:そうかすごいな。どうしても俳句やっていると季感を見たくなってしまうな。

白野:自分もササキリさんに限りなく近いんですが、俳句の中の季感という感覚が、わからないとまでは行かないけど、うーんと思っていて、ササキリさんが〈ルカルカ★ナイトフィーバー〉と同列と言っていることはよくわかります。両方を踏まえてこの歌集に出てくる季節を表す言葉を考えると、それらは主体と世界を繋いでいるものだと私は思っていて、私がペア歌で引用した〈シャンプーをしたあとすぐにシャンプーをしたのかどうか忘れてしまう〉〈本当に楽しい飲み会の後の楽しい頭痛ずっと続けよ〉とかは、若干主体主体してる印象があるんですけど、季節の言葉が入ると、うちらと同じ世界を生きているんだと思えるというか、伝わってきます。

櫻𩵋:ちなみに俳句的な文脈でいうと、季語を書くことで〝私〟と〝世界〟を繋げるみたいな話ってよくありますよね。中矢さんよくありますよね。無理やりな振りですけど笑。

中矢:うーん、たぶん櫻𩵋さんや橋本さん、私にとって、季語は凄く詩的喚起力を持っている言葉で、イメージするものがたくさん浮かんできますよね。たとえば私は〈ルカルカ★ナイトフィーバー〉よりは〈夜桜〉の方が浮かんでくるものが多いです。しかし人によって効力の程度こそ違えど、季語も〈ルカルカ★ナイトフィーバー〉もどちらも喚起力があると思います。で、『遠い感』を読んだときに、季節にばかり意識はしなかったけれど、改めてその観点で読み直してみると、季語を中心に据えているものもあれば、舞台装置的に演出として使っているものもあり、一句のなかで必然性のようなものが高いと感じられるものもあれば、季語が動くかもというか軽いと思う歌もあります。たとえば〈結局はみうちびいきが名盤を生み出すための夜桜なのか?〉の〈夜桜〉とかは実体のない概念として抽象的に、けれど必然性は高く詠まれていると思っていて、〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉の〈葉桜〉とかは舞台装置的な演出として、けれど必然性高く、歌に置きたかったんだろうと勝手ながら思います。それで話を戻すと、バックボーンによって喚起力こそ違えど、季語以外にも〝私〟と〝世界〟を繋げるものはあるのだから、俳人ⅤS俳人以外の方々の構図で議論を進めなくて良いのではないかと思いました。

櫻𩵋:ありがとうございます。そうですね。これ郡司くんは聞いていてどんなこと考えてた?

郡司:歌を作っているときの心境としては、季語とか季語じゃないとか関係なく、この言葉がハマるなと思って書いてはいますね。〈人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜?〉とかは露骨だけど、〈満開の桜〉ってほら、軽薄じゃん……。

櫻𩵋:でもスキャット的に置くこともあるんだよね。

郡司:うーん。まあ、〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉とかはよくある短歌の作り方だから、少し手癖で選んでいる感じはある。

 

◎真顔・メタ・アイロニー

橋本:ササキリさん、資料の方で真顔が見えてくるとか書かれてますけど、そのへんはまだ話されてないですよね。

ササキリ:はい、そうですね。真顔……。満開の桜に関しては、かなり、問いと答えっぽいことと、満開の桜を見に行くかどうかの逆張りの態度があるということを前提としたときに、たぶん先の話とも繋がるんでしょうけども、この歌集の遊び紙がウクライナカラーであるという事実は、どう扱えばいいんでしょう?みたいなことは思いますよね。併せて「そういうひと」という章、連作をどう読めばいいか。無視は可能なんだけど。しかも、無視しても良いと云っているっぽいところが、この歌集のおもしろいところ。あくまで、四季的なものや、元ネタとかを取り攫わないと、この歌集を読めないということを先ほど議論したけれども。とかなんとかごちゃごちゃ色々と考えてしまうんだけれども、「そういうひと」の真顔じゃなさを前提にしておいて、いずれにせよ、私が挙げた三首の〈消化器を抱いていないと青空に落ちてゆきそう 見ていてほしい〉〈海になつかしさを感じているうちはほんとうにさようならは言えない〉などが真顔だと思っています。このようなことを、みなさんが思っているのかどうかが気になっているところです。〈ンゴねぇと言われても困るンゴねぇ そういうノリが大切だった〉がこの三首の中だと最も真顔という感じがしています。四季とか元ネタとかの話、要は桜とかドミンゴの話は、この歌集の真顔を捉える際には、そこまで必要なものではないということを言いたい。強く言いたい。というのが私の資料で示したかったことです。

中矢:すみません。「真顔」っていうのが実はよく分かっていなくて、言い換えるとしたらなんでしょうか。「本心」とか「切実さ」とかでしょうか……?

ササキリ:真顔は、そうですね……。〈ほんとうのさようなら〉とか、〈見ていてほしい〉とかを読んだときに喚起される顔が、とりあえずのところで、私が言っている真顔なんです。確かに、切実さとか本心とかに言い換えられるかもしれないけど、〈ンゴねぇと言われても困るンゴねぇ そういうノリが大切だった〉の歌などは特に、真顔を何かにパラフレーズできるようなものではないです。だから、あえて前半の二首を、良く捉えられている真顔、すなわち切実さや本心、だとすれば、この三首目は、真顔というのはどういう意味なんですかと聞かれたときに、前半の二首の真顔とは違う真顔です、としか定義できないような真顔です。

櫻𩵋:なんとなくわかる気はします。

橋本:僕はなんかこの歌集、ずっと真顔だと思うんだけどな。満開の桜、とか凄く真顔で言ってそうだもん。

ササキリ:そうか、うーん。

橋本:とぼけ顔の可能性もある。

櫻𩵋:なんか逆なんだけど、歌集を読んでいると、物凄くきれいな言葉が出てくることがあるじゃないですか。

橋本:訳されて窓に降り続ける雨よ窓に降り続ける秋の雨〉とか。

櫻𩵋:そうそう、演出が入ったような。それを読むと僕は真顔だと感じるな。

郡司:それはなんか、そういう歌の数が少ないから、真顔というか本心に見えるわけではなく?

橋本:真顔ってなんですか……。

中矢:ヤバい、私は全部ずっと「真顔」だと思って読んでいたかもしれない笑。私のなかでこういった日常的なことを書いた短歌の多くは、日々を「真顔」で暮らしながら心の中で焦ったり嬉しくなったりしたときのことを、書き留めているんだと思っていました。だから、「真顔」の中でに差異があるというお話は凄く新鮮でした。

郡司:真顔の差異、なるほど。

ササキリ:皮肉っぽい笑みとか言うじゃないですか。

中矢:皮肉っぽい海老?

全員:笑。

ササキリ:笑み、笑い。皮肉っぽい笑みがあったとしたら、真顔って感じはしないんじゃないですかね。

櫻𩵋:さっきのきれいな言葉について、例えば〈ふあふあと冬に眩しい朝に立つ胸にはるかな天球うかべ〉とか、凄く臭くて整頓された言葉の配列なんですけれども、逆張りできれいな言葉を使いましたと思わせて、実は凄く真顔なんじゃないかと。これは郡司くんの不器用さがむしろ良く出ているのではないかと感じました。意外と抒情的というか。僕の感じている真顔とササキリの真顔がそもそも違うかもしれないですけど、僕はこっちの歌に真顔を見たというか。歌集の中で露出してしまっている可愛さのような気がします。

白野:真顔、なるほどなあ。みなさんがどんな真顔を思い浮かべているのかちょっとまだわからないんですけれども、橋本さんが言った結構ずっと真顔という意見が個人的には一番近くて、納得していました。櫻𩵋さんの言っていることもわかるところがあって、それらを総括して歌集には全ての物事をコンテンツのように眺めている視線があるんじゃないかというような気がしています。〈ふあふあと冬に眩しい朝に立つ胸にはるかな天球浮かべ〉もマジで言ってそうではあるけど、マジで言っているその主体に対してすらもコンテンツを閲覧するような姿勢があるように見えて、これがどんな真顔なのかはわかりかねています。

櫻𩵋:それってほんとの真顔なのかな。

橋本:何個もあるもんなのか笑。

ササキリ:白野さんの仰っている、結局閲覧性に戻るという話は、要はメタからメタへ、メタメタメタメタ……と、メタゲームが続いてしまうことが逆張りの構造なのである、という話のことだから、やっぱりそれをどこかで辞めているということを、この歌集に見出さないといけないという思いがあります。まずはそこがスタート、というかゴールですよね(一旦、「ある種の逆張りか逆張りじゃないかという選択をする地点に立たされる」にせよ)。私は、その終止符として〈ンゴねぇと言われても困るンゴねぇ そういうノリが大切だった〉の歌を挙げています。

櫻𩵋:めっちゃわかります。でも白野さん的には、ずっとメタで歌集を読み通した方がおもしろいってことですよね。

白野:そうですね。メタゲームをやめて真顔になる一瞬もあるだろうけども、それでコンテンツを見るような目線からは逃れられていないと思ってしまいます。そっちをずっと歌集に感じ続けています。

櫻𩵋:僕もササキリさんに近いかな。どこでメタゲームをやめられるか探している感じ。でも白野さんの言うずっとメタゲームの方が安心感があるというのもわかって、『遠い感』はその両方の読みをゆるしてくれる雰囲気だから、メタが終わらなくても楽しく読めるんだけど、でも同時にメタを終わらせたいようにも思える。

ササキリ:やっぱり、そこでどれだけメタをやっても、歌集の遊び紙がウクライナカラーであるときに、この歌集をどこまでメタと受け取れるんだろうと疑問で、そこで私、「最高度の戸惑い」と資料に書いたけど、これメタメタで捉えていた人が凄く戸惑うんじゃないかと思うんですよね。

郡司:あ、これそういうことか、そうか……。ちょっとガワは全部おまかせだからなあ、なるほど……。

橋本・櫻𩵋:

ササキリ:「そういうひと」の揶揄の調子が……。

橋本:連作「そういうひと」って馬場あき子さんが入れるべきって言ったから入れたんでしょ?

郡司:そう、これは、馬場さんがその年に読んだ短歌連作の中で色んな意味でトップクラスにおもしろかったと言っていたと聞いて、米川(千嘉子)さんからの勧めもあって入れたね。

橋本:これ初出はどこなの。

郡司:結社誌だね。なんか歌集を作るときに、他者性を導入しないと事が進まないし、良いものが作れないと思ったんだよね。自分の頭だけじゃ限界がありすぎる。だから載せた。

ササキリ:「かりん」誌ですか。

橋本:馬場あき子のアドバイスと装丁家の趣味嗜好が、奇跡的に合わさってしまったと。まあ読み手にはそんな制作過程は関係なく、どう読むかは自由なんだけど。

櫻𩵋:「そういうひと」はさ、浅野いにお的な真顔感があるよね笑。

ササキリ:誰?笑。

橋本:『おやすみプンプン』……。

櫻𩵋:やっぱそれはいいです笑。

郡司:浅野いにおが持っている真面目さとアイロニーくらいのバランスね。

橋本:グッドバイブレーション。

櫻𩵋:はい、というわけで、クライマックスに橋本くんの感想文の番です。

 

 

◎あえて作者の年代記として読む

橋本:まず、一旦みんなでとぼけましょう、という話です。一旦この歌集を読むときに、あえて作者の年代記として読む方法を強く取っていく。僕たちはまず、郡司和斗が二○一九年に新人賞を受賞したことと、受賞作をほぼそのまま巻頭に置いていることの意味を、読み込んでいくべき歌集だなと思います。あとがきにもある通りこの歌集はおおよそ編年体なんですよね。郡司和斗は短歌をはじめておよそ一―二年目くらいで作った歌で新人賞を取っているわけだけど、短歌研究新人賞受賞作の「ルーズリーフを空へと放つ」には一人の歌人の原点が見え隠れしています。結構多くの第一歌集はそこが見えてこないと思う。何年か既にキャリアがあった上で、新人賞とか取ったあとに定まった作風で作品をためて、それで歌集を出すみたいな。本当の初期作は見せてくれなかったり。でも『遠い感』は、原点からの発展を見せてくれる歌集だと思う。僕なりにその過程をまとめると、主体が脱主体化していく過程、あるいは、他者の声を獲得していく過程と言えるかな。こうした視点を踏まえながら、ここでは特に変化の激しい第Ⅰ部から第Ⅱ部の連作ひとつひとつを丹念に読んでいこうと思います。「ルーズリーフを空へと放つ」は、凄く素直な連作なんですよね。例えばさっきも話したけど〈一人だけの民族みたいなはなびらをひたいにつけて踊るあなたは〉。あなたという言葉は序盤にはよく出てくるんですよね。〈店番のひとりっきりの昼下がりあなたもきっと踊りたくなる〉とかも。このへんの〈あなた〉って特定の誰かではなくて、世界に対する信頼が見え隠れする〈あなた〉の使い方だと思うんです。つまり、歌を詠むこと自体が、世界の明るさとか希望を寿ぐような行為になっている。いわゆる青春歌と分類されるような雰囲気。あるいは、〈水道代払わずにいて出る水を「ゆ、ゆうれい」と呟いて飲む〉とか自分の見ているもの感じているものの素直なおもしろさを、まだこのあたりでは素直に読んでいる。で、ここからどんどん歌が屈折していくんです。それは郡司が色んな人から影響を受けていったからだと思います。「されたりしたり/夏の雨」では、〈性欲を折りたたむときぶあぶあと植物園の匂いがよぎる〉など、だんだんと他者のまなざしが差してくる。心の陰りが見えてくるようになる。「accomplice」あたりからは、だんだん世界を素直に寿げなくなっているんですね。歌で、何かそのもの自体を詠むことに耐えられなくなっている感覚が微妙にある。一番顕著なのが、〈ベーコンの厚みのような喜びがベーコンを齧るとやってくる〉。このトートロジックな技術。もう既に、新人賞のころでは詠まなかった世界なのではないかと思います。なんか、言い方は悪いけど、どんどん小賢しさを覚え始めている。で、「ニュースに母は」では、言い差しが増える。〈まあ親子で死んで良かったねと煎餅齧りながらニュースに母は〉〈蟹は黙って食え その後のすごろくで幸せになるマスへ家族は〉、このへんから断言を控えるようになります。それまでは歌を完結させてる作りをしていたのに、ここで言い差しを覚えはじめる。「顔にさわる」では、〈ふつうにもっと長く生きられたんだけど、ふつうにもっと 石油ストーブ〉〈火葬場ごとにスタイル 悲しみ方のスタイル ピタゴラスイッチを見てた意味〉など、名詞をポンと一語だけ置いて意味を託すみたいな方法が使われだす。それはやっぱり断言を控える感覚、自分の思っている主張を保留する感覚が過ってくるからだと思う。ここまでが第一部。第二部からは、これまでの議論にあったようなメタ視点によって歌が変えられていくんですよね。俺って大丈夫かな、ここまで。

櫻𩵋:大丈夫笑。

橋本:「やさしい音楽」から。〈人生どうでも飯田橋と最初に考えた人に炬燵をプレゼントしたくなる〉、この、人生どうでも飯田橋って、ミーム的に軽い言葉ではあるけど、人生がどうでもいいというのはとてもシリアスな意味ですよね。ミームによって作者がそれを内面化していく、屈折していく感覚が読めてくる。しかもその屈折の発見に炬燵をプレゼントしたいという捻り。〈弾圧も冬の思想と思うとき鈴売は鈴の音を売りにくる〉、これまでの連作では外的な理想視された世界を詠んでいた主体が、その社会に取り込まれて始めている。言うなれば、無遠慮さを捨てなくてはならなくなっていく感覚が兆してくる。この歌人に、社会とか翳りとかが差し込んでいる。「ちからとさくらとげんき」では、〈玉入れほどの届かなさから降ってきた帽子を梅の樹に掛けておく〉の届かなさ、〈むかしよくしゃぶった毛布にくるまって春雷が止むまで横になる〉とかの、不全感が現れるようになってくる。〈いくつまでゆるされキャラで行けるだろうアパートまでの葉桜の道〉なんかは象徴的だけど、自分が許されてきた存在であると自明的な自分に対する視点が生まれはじめる。それまで素直に詠まれていた歌に、他者の視点、あるいは自分による自分への視点が混ざってくる。ここまでの話は、「ルーズリーフを空へと放つ」が凄く素直に詠まれた連作だったことに端を発していて、郡司和斗が現代の口語短歌を作っていく上で、獲得せざるを得なかったものだと思っているんですよね。「karoshi」からより如実に、自分の歌を客観視し始めると思うんですよ。思い返せば、僕が短歌を作り始めた頃って、歌は〝僕の歌〝だったんですよ。それがだんだん〝僕が所有している歌〝に変わってきた。

郡司:その感覚わかる。

橋本:それで、「karoshi」からは〝私〝の操作が上手くなってきている。〈少しまってやっぱさっきに打ち上がった花火が最後じゃんかと笑う〉の〈少しまって〉が結構凄くて、その場に本当にいる〝私〟が言える動詞ではないと思うんです。俯瞰的に〝私〟を捉える私がいるから成り立っている。この連作あたりから、〝私〟の位置の操作が上手くなっている。

櫻𩵋:TPS的なね。

橋本:大切なのは、FPSとTPSの切り替えの過程に、自分の声が社会や他者に否定されている感覚があることだと思うんです。ここから『遠い感』が多様になっていくのは、一人称を操作する技術が培われていくからなんですよね。さらには、「マヨネーズ色の祝日」あたりから、取り合わせという地獄の技術が生まれだしてくる。〈マヨネーズ色の祝日 治ったらいつでも会いにきてちょうだいな〉、これって明確に取り合わせじゃないですか。言葉の次元の話ですよね。ここに素直な〝私〝の肉体って存在していない。言葉の次元で操作している〝私〟がいた上で、発話的な口語を置けてしまっている。それで、「ナラティブ」はちょっと飛ばして笑。ここに来て「遠い感」で急にこれまでのその流れに対抗してくる。

櫻𩵋・橋本:

橋本:「遠い感」って「ルーズリーフを空へと放つ」よりも前の連作だよね?

郡司:前と後が混ざってる。

橋本:そう、じゃあちょっと対抗ね。だんだん技術を身に着けて一人称を操作しだした歌集の流れに対抗して、素直な〝私〟を一瞬取り戻している。どのあたりが対抗しているかと言うと、〈あなた〉の存在だよね。〈あなた〉と言えること。あるいはむしろ、「人の人生振り回しながら生きたいとちょくちょく思う風の屋上」なんかでの、他者の軽視。この連作のメンタリティは、「ルーズリーフを空へと放つ」に近い。「リミックスバウト」は、これはつくば現代短歌会の機関誌『つくば集』創刊号のインタビューで聞いちゃったことだけど、全部本歌取りになっているという。僕がこれかなあと思う範囲だと〈1円玉二枚をずっとポケットのなかでいじっている 朧月〉は永井祐の「大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円」(『日本の中でたのしく暮らす』)、〈寄るだろう虎の刺繍のジャケットを着て国道の幸楽苑に〉は村木道彦の〈するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら〉(『天唇』)かなあみたいな。でも、本歌取りと言えるほど明示的ではないんだよね。他の人の声を取り込んで、あらためて自分の声で出力している。この本歌取りって凄く特殊なんだけど、どうしよう。なんて言おう。

櫻𩵋:安里琉太さんとかの言う「参照性」っぽいよね。下敷きとまでは行かないんだけど、前に読んでいると想起されてくるくらいの。フランクな。

 

◎現代短歌のコンテクスト

橋本:そうねえ。なんにせよ「リミックスバウト」で分かることは、郡司和斗が短歌世界のコンテクストに来ていることですね。それで、最後に「we can(not)advance」に触れると、そこで初めて自覚的に若者文化が織り込まれ出している。〈いーじゃんいーじゃん 春だけ電車が止まる駅 すげーじゃん 梅満開の庭〉とかは仮面ライダー電王のOPだよね。ここらへんから2ch文化の〝コピペ〟みたいなものを明示的にするようになる。なぜそうなったかと言うと、郡司が短歌のコンテクストを吸収して短歌のコンテクストで短歌を書き出してしまったからだと思う。

櫻𩵋:それさ、短歌のコンテクストから離れたわけじゃないの?「リミックスバウト」で完全に短歌のコンテクストで短歌を作り始めたとこらから、コピペとかミーム的なものに行くようになったわけじゃない。僕からするとそれは短歌の文脈から離れて行っているように見えるけど。

橋本:いや……。重要なのは、この人が、声を調整できるようになってしまっていることだと思っている。つまり、現代短歌のコンテクストって、いかにテクストを操作できるか、なんですよ。既存のミームやら新しい名詞やらを取り入れて、いかに操作できるかを勝負する競技になっている側面があるんです。で、郡司和斗という歌人は、最初のほめ歌の世界から、こういう変質をさせられてしまったという話をここで僕はしたかった。

櫻𩵋:なるほどな。

郡司:インターネット大喜利短歌みたいな作品は、ここ数年めっちゃ増えてる傾向にはあるので、短歌のコンテクストといえばそうではある。

櫻𩵋:僕は結構『遠い感』がそういう短歌の開拓者なのかと思ってたけど、割とそうでもない?

郡司:歌集レベルでここまで染みついてるのは、青松さんの『4』とか『遠い感』が第一世代に見えると編集者の人から言われたことはある。あとこの辺の短歌は、割と意識せずとも自然とインターネット的なものを歌材にしていたところが僕はあって、それがみんな同時に起きているんだと思う。Twitterに入浸りすぎて。

橋本:そこが僕が資料で「心性」と書いたところで。本来はアナール学派の人たちが提唱した歴史学の用語をいっちょ噛みして使うんだけど……。特定の集団が無意識にやっている習慣だとか思考、想像なんかを心性と言うんですね。だから僕が言いたかったのは、郡司が意識的に変化しているというよりは、現代口語短歌を二○一七年ごろに始めて、Twitter文化とかに馴染みながら創作していくと、このように変質せざるを得なかったのではないかという話です。

ササキリ:だから、さっきの中矢さんの話と同じで、人間の脳の容量の関係で二〜三個までしかオーバーラップしないくらいの必然性として、このような変化が普通にあるということですよね。

郡司:なるほど……。人間を超えないとダメだったか。

櫻𩵋・ササキリ・橋本:

橋本:それが伝わったのは嬉しいんですけど、ちょっと一旦みんなの意見が聞きたいです。

櫻𩵋:郡司くんの歌集でミーム的なものが出てきたのは、後半ということになるよね。白野さんとかって、今の話を聞いて、歌集前半の読み口って変わったりしてる?

白野:資料を作るための手元のメモを見返すと、「ルーズリーフを空へと放つ」に対して、「やっぱりここが起点になって歌集が始まっている気がする。涼しい風がずっと吹いているような温度感で、ここに既に強い閲覧性の片鱗が見える」と書いてあります。「対象をじっと丹念に眺めている主体が見えるが、そこに思想を見ることはできないような感じ」とも。さっきササキリさんがチャット欄に「さっきの牧人さんの話で、かなり丸の内サディスティックの歌や九月のブログの歌の意味合いが変わってきますね」とありますが、「accomplice」の連作も批評性というよりもより個人的なものを感じます。後半の方にミーム的なものな多いのはまあそうですね。

櫻𩵋:前半にも後半に繋がるようなものがあると。

ササキリ:一応、白野さんに聞きたいんですけど、「片鱗」についての話で、前半でそう思ったのは、もしかして、短歌が上手すぎると考えたことが原因なのではないかと思ったりしたんですけれども。まあ、短歌が上手いというかよりかは、この歌集の短歌が好きで、そう考えてしまうことはありえるのではないかな、と。

白野:「ルーズリーフを空へと放つ」が上手すぎて、そう考えてしまっているのではないかという話ですよね。今言われて、自分の中にその考えは全くなかったので、そう言われるとそういう気がしてきますが、もうちょっとちゃんと考えたいですね。

ササキリ:わかりました。

櫻𩵋:ちなみに歌が上手いというのを気にされたのは、どういうところから?

ササキリ:もし読み手が、〈作者はを凄い!〉という感情からスタートしていたとしたら、この作者が摂取したであろう引き出しの中の物や、展開の仕方をわかったぞ、解釈できたぞ、という感覚を得ても、でもやっぱり、作者はそのより上にいると思ってしまうはずです。一旦作者と同列になり、だけど、また見ると、いつのまにかまた上にいる。まだダウンロードし切れていないと思い込んでしまい、閲覧性ないしは元ネタを探すというスパイラルにハマってしまう。そういうことを、素朴に思いました、ので白野さんに伺ってみました、というところです。

郡司:中矢さんが資料で送ってくれた池田澄子の句とかは、堀本裕樹にもサンプリング的なヤツかと聞かれたんだけど、別にそんなことはないんですよね。たまたま要素が近かっただけで。この歌集、そういう元ネタスパイラル、サンプリングスパイラルを考えるのが止まんなくなっちゃいますよね。

橋本:参照領域が広すぎる。

郡司:まあ、歌集の中の数でいったら参照とかしないで作っている歌の方が当然多いんだけども。

櫻𩵋:永遠に元ネタを探す動機が、作者が上手いから止まらなくなってしまうと、ちょっと話がまた変わってくるよねってことですよね。

ササキリ:はい。それでいうとさ、瀬口さんの栞文(「しかしこの歌集、正体を捉えようとする読者が要求されるリテラシーは高い」)を意識する人もいるんじゃない。

櫻𩵋:白野さん的にはそこはまだ保留って感じよね。

白野:そうですね。そこはちょっと。

櫻𩵋:マッキーはどうすか。

橋本:いやー、俺が本当に言いたかったのって、さっきの話だったっけって今なっちゃってる。

櫻𩵋・ササキリ:

 

◎歌風の変化と歌集の芯

櫻𩵋:概ね編年体だから、連作を順に追っていくと見えるものがあるっていうのは、クリティカルだと思ったけどね。

橋本:僕が言いたかったのは、短歌を続けていくことで、主体が歪められてしまう力が、少なからずあることを提起しておきたかったということのはず……。

櫻𩵋:それは歪められることで、良い方悪い方どっちに行ったとマッキーは思うわけ。

橋本:僕はそこの善悪を、永久にペンディングしている。

櫻𩵋:それが郡司くんの歌にどういう働きをしたのかが気になる。ある面では研ぎ澄まされたのか、別の面では良くないことなのか。

橋本:そうなんだよねー。

櫻𩵋:これは僕の個人的な意見なんだけど、後半になっても世界を寿ぐことは辞めていないような気がして。

橋本:そう。

櫻𩵋:そこで僕は、また話をややこしくて申し訳ないんだけど、季語に見出してしまうんだよね。世界の寿ぎを。

橋本:それもわかる。資料にも書いたけど『遠い感』の中で変化がありつつも変わらないものがあって、そこが歌集の美質だと思うわけで。季感≒世界への言祝だと思っているかもしれない。あれ、うーん。そうかなあ。

ササキリ:今、問われているのは、『遠い感』の中で変わらない本質的な魅力で、そこに着地しかかっているけど、橋本さんは、やっぱり拒否しかかっている、と。

橋本:俺は資料でそう書いたけど、本当にそう言えるのだろうかと疑問だったし、今あまり言えていないという。

ササキリ:何が変えられなかったのかという点で行くと、話が戻っちゃうけど、〈ンゴねえと言われても困るンゴねえ そういうノリが大切だった〉という歌は、変えられなかった表現なのかな、と思ったりします。しかも、この歌で言われているのは友情である、と言いたくなくなっている自分がいる。

橋本:ああ、たしかに。その真顔ですよね。腑に落ちました。

ササキリ:〈好きになる人がもれなく丸の内サディスティックを歌うの上手い〉、元ネタがどうしようとか、サブカル、コピペをどうしようと思ったときに、丸の内サディスティックという固有名詞が、ある年代、ないしある界隈の人からすると、サブカルの歌として捉えられてしまうけれども、一方で「あなた」の不在としても読めて、それを見過ごしてしまうかもしれないな、と橋本さんの話を伺いながら思いました。ただ、これはそんなに世界を寿いでいないかな、とも思うから、変な言い方をすれば、26ページにあっても良かったな、とも感じる。とはいえ変な読みはされてほしくない愛すべき歌感がありますけども。〈少しまって〉の歌については、最初期の郡司はこの初句を持ってこれない、と橋本さん仰ってましたけど、そうかあ?と思いました。でも一方で、この感じ(中矢さんの「花火」が主役と感じる、とのご発言を念頭に起きつつ、私はそうは思わず、友情とでも言いたくなるような感じ)と〈ンゴねえ〉は私の中では繋がっているというか。そういうものを大事にしているんだな、とよく伝わってくる。あんまり歌の修辞とかは、私は見切れなかったけど、そういうことを思っています。

橋本:結構嬉しく、軟着陸できた感があります笑。

郡司:なんか、さっき橋本が少し言いかけて辞めたことは話さなくていいの。

橋本:現代短歌への悪口になるから大丈夫。

郡司:そうか笑。まあそうねえ。私、最後の連作とかは、回帰のつもりで置いたりもしたんだけど、どうなんでしょう。

橋本:そうなのよぉ。この歌集の最後の歌、めちゃくちゃ好きなんだよな。郡司の歌集が最後ここに着地するのめちゃくちゃ好きで。

郡司:最後にチャージビームとか言って終われないなとは思って。

橋本:〈祈りすぎてもダメなんだけどでも祈る 音立てながら西瓜を齧る〉とかも良い。

櫻𩵋:いま思った。

橋本:『遠い感』はうん、そう、いや、いい歌集なのよ。

櫻𩵋・橋本:

櫻𩵋:郡司くんが回帰するって言ったのもわかるし、ここでメタを終わらせたい感じもよくわかる。〈僕のせいで苦しむ人がいて欲しい電気ブランのように眩んで〉とかの歌で、いままでずっと考えてきたことが終わる感じがするんだよな。〈またねって言われてもまだ赤だけど シャツのボタンをくにくに触る〉とかで考えていたこととかが。郡司くんがここであんまりふざけてらんないだろみたいなことを言いたいのはよくわかる。

郡司:まあ〈チャージビーム 教えることはなにもない チャージビーム 教えることしかない〉も真顔ではあるんだけど、スタートを「ルーズリーフを空へと放つ」にした以上、チャージビーム的な方向の真顔で終わるのは無理かなと。

櫻𩵋:ジャズ的なね、テーマで始まって、テクを見せて、テーマで終わるみたいな。

郡司:二期の最終話で一期のOP流すみたいな?

橋本:違うような……。絵柄が変わってるよ。

櫻𩵋:ふつうはAメロBメロサビAメロBメロサビで終わるところを、サビから始まって、色んな楽器があって、最後もサビで終わるみたいな、そういう統一感があるね。

郡司:さっき橋本が言っていた絵柄が変わっているというのはわかるな。なんか、二期でキャラが再登場したんだけど、製作会社が変わっているからキャラデザちゃうやんみたいな。

櫻𩵋:

橋本:それはそれで嬉しいよね。

ササキリ:塚本さんがそう仰ったから、私は〈僕のせいで苦しむ人がいて欲しい電気ブランのように眩んで〉と〈人の人生振り回しながら生きたいとちょくちょく思う風の屋上〉、この二首のある種の断絶みたいなものが、腑に落ちました。ふつうに、それはじん……とくる話ですね。

櫻𩵋:そうですよね。

橋本:物語だ。僕からは以上です。

櫻𩵋:中矢さんここまで聞いてなにかあったりしませんか。

中矢:わ、すみません、かなり油断していました。えっと、理解するのが結構難しかったです……。「世界の寿ぎ」については詩とは全て言葉による「寿ぎ」なのではとか思ってしまったり、あと、アニメのOPやAメロの比喩も絶妙にピンと来ていなかったりで、かなり絶望的な理解力……。私の八百字コメントのお茶の濁し方を見ていただければ分かるように、全体を理解する俯瞰的な視点や、比喩を理解することに対して、意識と能力が圧倒的に不足しているんだろうと思います、すみません。最後の連作「雨ノート」と歌集最後に〈水面にいくつか波紋 降っている感じはしないのに降っている〉を置いて、終え方がよいというのは、深く共感しました……!しっとりと穏やかに音量のボリュームが絞られて行く感じがします。ただこれが「回帰」なのかどうかは私には分かりませんでした……。あと、そうだ、素朴なことを言い足すとすると、橋本さんが声に出して読んでくれたおかげで、「karoshi」を過労死と読むことがわかりました。私ずっとかろし、芭蕉の俳句とかでいわれる「軽み」みたいなことだと思っていました……。

櫻𩵋:笑。

中矢:あとなんだ、詩の原点かもしれませんが、ちゃんと声に出して読むこと、朗読って大事だなと思いました。一人で読んでいたらずっと気がつかなかったと思います。今救われました……!

橋本:すご。

中矢:そうだ、言い残しがないよう話し散らかしますが、歌だけ知っていたものがいくつかあって、たとえば〈まあ親子で死んで良かったねと煎餅齧りながらニュースに母は〉とか。それが今回歌集を通読して、郡司和斗の作品だったんだと気づいて吃驚しました。それは自分が目指しているところでもあって、自分の名前よりも作品が誰かに残っていてほしいから、これがそうだったんだと。私はぜんぜん短歌畑ではないのだけれど知っていました。

櫻𩵋:という感じでダラダラ喋ってきましたけれども、最後に一言ずつもらいながら、終ろうかなと思います。では中矢さんのこの流れから、橋本に。

橋本:聞いてくれて嬉しかったです。

白野:ありがとうございました。結構、考えていたことの4%くらいは言えたので、良かったなと思います。他の方の意見を踏まえて、もっと考えていこうと思います。

ササキリ:色んな物事を語るのに必要な文字数と、時間と、態度みたいなものって、やっぱり莫大だなと思いました。

櫻𩵋:

ササキリ:付け加えると、何度も語り直そうと思いました。楽しかったです。

櫻𩵋:今日印象的だったのは、季感とスキャットの話とか、真顔の話とか、メタを終わらせる話とかですね。話していて勉強になりました。最高のメンバーに声かけられたと思います。みなさん夜中までお付き合いくださりありがとうございました。

郡司:本日は長丁場本当にありがとうございました。ちょっと最後に自作について述べると、自分でこの作風なのにも関わらず言うのもあれなんですけど、アイロニーは射程が短いな、と思います。米川千嘉子や斉藤斎藤くらいギンギンならわからないけれども。なかなか中途半端だと難しいところがあるなと思いましたね。メタについても思うところがあるんだけど、メタ志向によって超越的な立場を取ろうとするのって、なんかね、結構帝国主義的なロジックだと感じていて、止めた方がいいなとずっと思っているんですよね。そういうのとは違うゾーンでちゃんと、自分の鎖鎌をぐっと相手の喉元に突き立てることができるようにならないとダメかなと思います。フィジカルで。

櫻𩵋:ほんとにそれでいいの笑。

橋本:フィジカルって大事だよ。

郡司:今の直観はフィジカル重視ということで、ありがとうございました!

 

 

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【第七回】相子智恵句集『呼応』

相子智恵『呼応』

 

郡司和斗五句選

ゴールポスト遠く向きあふ桜かな

日盛や梯子貼りつくガスタンク

紙吹雪固まり落ちや初芝

まゐつたと言ひて楽しき夕立かな

ハンガーにハンガーにかけて十二月

 

 

塚本櫻𩵋五句選

古着屋は他人の匂ひ冬の雲

ひもの屋の干物のための扇風機

夢ヶ丘希望ヶ丘や冴返る

阿形の口出て銀漢や吽形へ

眼前の橋灼けてをり眼とぢても

 

 

 

𩵋:まず句集全体の感想だけど、正直最初に読んだときは、あまりグサリとくる本じゃなかったんだよ。丁寧な日常と発見の句が並んでいて、わかる、わかるんだけど自分にとっては少し物足りなかったんだよね。でもちょっと積んでおいて少し経ってからぺらぺら読み返してみたときに、「半透明」の章からすごく自分にハマってきた。一発で魅せてくる句集じゃなくて、読み解きによってじわじわと侵食してくるよさがある。それからは大好きになったね。今回郡司くんの選句の提出が若干早くて、僕がメモしてたのと結構被っちゃってる感じだったから逆にみんな選ばなそうなところをセレクトしてみました!

和:その役割を期待してました、ありがとう。

和:『呼応』は発売してすぐ買って読みました。実は私も感想が近くて、あんまりハマりはしなかったんですよね。好みの問題もあるから言い訳っぽく僕のハマるラインを前もって言っておくと、第一句集だと藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』とかがツボです。

𩵋:お、じゃあこれは若干プレゼンの様相も帯びてくるな。トップはど真ん中の句を話したいのもあるしぐんじくんの奴からいこか

和:あ、じゃあ選んでええよ俺の中のいちばんど真ん中

𩵋:ゴールポストかな

 

ゴールポスト遠く向きあふ桜かな


和:グラウンドを囲むようにして桜が咲いているのかしらね。「ゴールポスト遠く向きあふ」って書くだけでこんなに空間が立体的に浮かび上がってくるんだと驚いた。百日後に死ぬワニの最終回のコマみたいに桜がわああってある絵が浮かびましたね。たぶんだけど、サッカーの試合はしていないと思う。無人のサッカーコートにゴールポストがしんと向き合っていて桜が冷酷に吹雪いている感じで解釈しました。

𩵋:やっぱりそうよね、誰もいないサッカーコートっていう感じがするね。距離を置いて向き合っている、やっぱりこういう気づきが作者の強みというか、丁寧な描写がいいと思うな。流行に左右される季語じゃないところも好感だし、桜はどう景色を見せるかが難しいと思うから、サッカー場大きく捉えたのはクリティカルだよね。

和:クリティカルいただきました。サッカーと桜っていままであったっけ、組み合わせ。

𩵋:うわっ、なんかすごいゾワっとした、たしかに僕いつもクリティカル言いまくってるな……。サッカーと桜みたことないし、むしろちかいね

和:いや、そう、どっちかっていうと近いネタを成功させるのってほどよい距離感ある取合せ作るよりよっぽど難しいなと思って。いいじゃんクリティカル言いまくろうよ。ゴールポストって存在自体は、かなり現代的なんだけど、まあでも玉蹴り遊びとして雑に捉えると、昔の人が蹴鞠の和歌を詠むときとテンションは同じなのかね。

蹴鞠の和歌詠んだ人の気持ちはわからないけど。

𩵋:ガチ読みすると……向き合うにある戦いのイメージの臭み消しみたいなところもあるよね。内容で捉えるんじゃなくて空間で捉えることで、僕らやっぱり人がいないイメージは共通してたじゃん。たぶん桜だから無人を連想するんだよね。

和:戦い、か。抜けてたな、その読み。確かに試合するしな。無意識に桜によって戦闘感を消されていた。次いこう。

𩵋:いきやす

 

古着屋は他人の匂ひ冬の雲


𩵋:よく高円寺で古着買うんですが、どちらかと言うと「古着屋」そのものが好きなんです。古着屋って狭くて埃っぽいんですけど、ほんとうに宝探し感あって最高なんですね。高円寺にペーパームーンていうお店があるんですが、ほんとうに雑居ビルの見逃しちゃうようなところにあって、急な階段登って店の扉開けると布の圧がガン!って感じで、レジ前で焚いてるお香の煙ががライトにずっと当たってるから色変わっちゃってるのよね笑

だからね、この「他人の匂ひ」っていうのはね人のお古だから他人の匂いなんじゃないんだよその場所の、カルチャーの匂いなんだよね。だから「古着屋はカルチャーの匂い」くらいのこと言ってほしかったという、そういうわけでいただきました。決してディスだけではなくて、冬の雲、絶妙だなとおもう。自分も古着屋の句つくることあるんだけど、古着屋に合わせる季語は難しい。目借時とかいいんじゃないかなと思ってつけてみたりする。でもシンプルに冬の雲はなんかいいね、狭い店から出た時の開放感もあるし、逆に狭いから外の広さを感じるのかもしれない。

和:高円寺いいですね。一回高円寺の古着屋巡りしたの覚えてる。

𩵋:いったね(笑)。

和:ただ単にお古だから他人の匂いってだけじゃないの、わかる。古着屋っていう空間に積み重なった他人性、みたいな話だなと。冬だから、コートとか着込む用の服探している場面なのかな。夏服より冬服のほうが〈匂い〉性が高いなと個人的体感としてあるから、季語選択はまあ納得する。なんか謎の幸福感ある句よな。カルチャーを感じるってそいうことか(?)

𩵋:冬服の方がにおいが強いっていう読み、すごくよいな。たしかにそうだね、生地そのもの厚さもそうだけど、冬の方が他人のそういう部分を多く感じる季節かもしれない。

 

日盛や梯子貼りつくガスタンク


和:中七下五についてはもうなんか今更言うことないな

𩵋:これ取り合わせがうますぎるよね

和:日盛にこの場面を見出したのがエグいね

𩵋:ガスタンクの熱そうな感じとうだるような熱さの中で鉄臭い油臭い感じ

和:そうなのよね、んで加えると、熱さに油とか鉄を合わせるのはあるあるそうなんだけど、ガスタンクを見つけたのってもう一段回上の目の良さだなと

𩵋:梯子なあ。張り付くなあ

和:工場萌えとかジャンクション萌えじゃないけど、ガスタンクフェチ的な意識の研ぎ方って意外と穴場だった。

そこにディティールを足す梯子ね。いい意味でのトリビア感。あっついなかガスタンクを観察して、バカでかい緑色の球体とかいう、改めて考えると謎すぎる物体の迫力をよく描いている。

𩵋:給水塔とかダムは擦られすぎた雑味みたいなものがあるけど中にガスをたっぷり貯めた球体って考え直してみると確かに面白いね

和:ガス貯めた球体ってなんなんだろうな……。本体はガスなんだけど、形がないから容器が本体みたいになるという、倒錯……。これからもガスタンクの謎を紐解いていきたいと思います。次どうぞ。

 

ひもの屋の干物のための扇風機

 

𩵋:ふつうに表記の使い分け気に入ったからとりました、

言いたいことはほんとうにそれだけだね。あとは観光地の感じでてて素朴にいいね。ひもの屋。おつけもの屋。おまめ屋。みたいな店名の表記めちゃ好きなのよね、あともっというと ばぁむくぅへん みたいなのもすき

和:あざいといけどッッそれでいいッッみたいな。干物がぱたぱたゆれて妙な楽しさがあるわね。でも干物って割とグロい見た目してるし、単純なゆかしさだけじゃないな。観光地読みは前後の句から?

𩵋:いや普通にこれは観光地に違いないて読んでた。絶妙な扇風機の角度なのよね。

和:あ、勘違いしてた

𩵋:なんやなんや

和:観光地感は確かにちょっとあって、それとはまた別の話として、主体が観光者だと桜魚さんが言っているのかと思った。主体がどういう人かは特定できないし、なんなら別に人間が存在していなくてもいい句だから、勘違いしてたという。

𩵋:そういうことか! いやあんまり考えないでちょっとある観光地感だけでしゃべってた! ただやっぱり干物のために扇風機が回ってる状態って絶妙に購買意欲をそそりそうだよね。匂いとか、その場の空気感というか

和:プロモーションとしてやってる感はあるかもね。

𩵋:臭いの打ち水ということか

和:そういう点から観光地感はあるのはよくわかる!

𩵋:そんなもんでしょうかね、シンプルによかったです

 

紙吹雪固まり落ちや初芝


𩵋:落ちや えぐいな

和:これよく落ちや、にできたな。固まり落ちってコロケーションをしれっとやってるけど別によく見る形ではないし。落つ、落ちたる、落ちにけり、落ちて、句にするときいろいろ収め方の選択肢あるけど、「落ちや」でしかイメージされない紙吹雪の動きってあるな。今ちょうど正月ですけども、やっぱ紙吹雪のごわっと感とか芝居で生の演者の動きに触れられるところとかめでたいっすよねえ。

𩵋:正月の芝居だからかなり人が入ってて、主体はちょっと後ろから客席含め座を俯瞰していると思うんだけど気づいちゃう感じがいいよね。

和:安田大サーカスということでね。

 

夢ヶ丘希望ヶ丘や冴返る


𩵋:ちょっと小馬鹿にしてるていうか、軽く呆れてる感じがいいね。つくばみらい市みたいな感じよね、冴返るだからもうちょっと深刻に嫌がってるのかもしれないけど。

和:句集に入れるのためらいそうな句というか、短歌っぽい論理で詠んだ情緒がちらちら出現しますよね。この句集。

𩵋:わかりますなぁ。帯句の群青世界も若干短歌ぽい理屈だよね。

和:そこが他の句集より評価される理由なのかなそんな単純化して言えへんけど。

𩵋:跋文とか小澤實さんの文とかでも触れられてるけど表現としての垣根は別にないんかね「俳句でも短歌でもどっちでもよかったけどたまたま俳句になった」みたいなこと書いてあった。

和:なんか書いてあったねそういえば。

𩵋:でもやっぱり作者は季語の斡旋がめためた決まってる句というより、じわじわ措辞でみせてくるタイプだと思うな。

和:でも構造はやっぱ俳句って感じやな(ふんわり)。

𩵋:そうね、でも桜はうまい。

和:地名+季語くらいの力の抜き方で作品が一つ成立するって凄いことっすよ。歌会でたまに合気道みたいな歌って評が出るんだけど、そんな感じ。

和:夢ヶ丘も希望ヶ丘も神奈川の話のよね?

𩵋:そんな特定せんでも(笑)!

いや、そんなこともないっぽいな。割と全国にあるおいおい学校名にしてるところもちょこちょこあるじゃねえか……

𩵋:希望ヶ丘小学校まじで草、再現ドラマの小学校やん

和:ああ、フィクショナルな視座がこの句の大切なところだったか。

𩵋:盲点じゃん

和:アイロニーももちろんありつつ、地名が持つ歴史の虚構性とかそういうものへの批評を読むほうがいいのかもしれない。

𩵋:希望ヶ丘なんか会議室で適当に決められてるわけだからな。希望ヶ丘が決定した会議には候補で夢ヶ丘も出てたはずだし。逆もまた然りよな……。

和:ディストピアだなあ。

𩵋:ディスコだ……。適当なこというてすみませんでした次どうぞ。

 

まゐつたと言ひて楽しき夕立かな


和:これはもうディスコだね。

𩵋:これはディスコ。

和:いやーまいったまいったって言いながら雨宿りでもしてるんかな。

和:夜降り出した雪をみて「うわ、これは積もるわ」って言うときの「うわ」みたいな、ネガティブな言葉を使いつつそこに起きたイレギュラーを味わうことってありますね。句の中で「楽しき」って言っちゃうことの意味を考えると、なんだろう、「楽しくなっちゃってる自分をを楽しむ」みたいなことが起きてるのかな。「まゐつた」って言葉のゆるさ、明るさの加減は絶妙で、内容的にあざとくなりそうなところを、軽くさせてるのはすごい。江戸っこみたいなキャラクターが浮かぶ。さっと降ってさっと止んで、雨上がりの夕暮れに涼しい風とか吹いてきちゃったりして、そういう夕立の季語パワーを利用した上五中七だな。

𩵋:僕は放課後の想像したな。通学路って雨に濡れるだけでビックイベントみたいなところあって、楽しくなっちゃってる感じを楽しんじゃってる感じわかる。

和:まあシンプルに雨降ってキャッキャみたいなノリなのもわかる。夕立だからこその余裕よな塚本くん追加で言うことなければ次でオッケー

 

阿形の口出て銀漢や吽形へ


𩵋:なかなかこの句集では異質なモチーフなんだけど、句は作者らしい面白みがあるというかね。阿吽とかカチカチによんでしまうんだけど、あの絶妙な間に銀感をみて、かつ口から口へという表現にしたのはおもしろかったな

和:阿吽と銀漢の組み合わせってイメージ過剰になるかと思ったけど、なんか意外とあっさりしてる印象だな。はじめとおわりに宇宙が挟まってる構図は、そのまんまっちゃそのまんまって感じだけど、「口出て」って言えたことが良かったのかな。銀漢が観念的な領域に収まらずに、妙な手触りをもって表れてくる感じがする。

𩵋:阿形と吽形のあいだってほんとに絶妙な距離感だよなそこに銀漢ぶち込んできたのはおもろい

流星の使ひきれざる空の丈 鷹羽狩行

こういう感じで星詠もうとすると見える範囲すべて言いたくなっちゃうんだけど、これは阿吽をふまえて阿吽に収束するから妙な面白さがある

和:あ〜、なるほど、星詠むときってたしかにそうだ。阿吽っていうフレームというか、枠をつくる視点が意外性あるか。

 

ハンガーにハンガーかけて十二月


𩵋:はい

和:月の句って取り合わせ難しいよな。

𩵋:ハンバーガーじゃつまらんしな。忙しさというか若干の余裕のなさみたいなのがでてていいかな。

和:忙しさか、なるほどいいな。俺は、ハンガーにハンガーかけるってなんか、飾り付けみたいだなと思った。誕生日のときとかにやる、折り紙の飾り付けみたいに、ハンガーが連鎖する。十二月のきらきらした雰囲気に、近からずも遠からずという感じで、かなり納得したんよ。

𩵋:飾り付けねー、その線もありやな

和:飾り付けではないけど、なんかそれっぽいなと。あとは、ハンガーの連なりが、その一年間の連なりの象徴っぽくもみえる。

𩵋:しっかり季節を考えて読むと、冬って長いコートとか着るからさ、クローゼットに入らないで外に出しておくこととかってあると思うのよね。コート掛ける用の太くて強いハンガーに明日の服とかをとりあえずかけておくみたいな感じは十二月によく合うと思う

和:ところでハンガーにハンガーかけたことある? 俺はなくて、この句は実はあるあるのようでないないなのではとないかと思ったんだけど、普通にあるあるか?

𩵋:いやあるよ、これは“あるある”でいいとおもうよ。

和:ぜんぜんあるあるか。

𩵋:なんかおもろいな

和:ハンガー×ハンガーということでね

𩵋:ラストですかね

 

眼前の橋灼けてをり眼とぢても


こちらですね

𩵋:狙いすました一句というよりは言葉がすらすら出てきた感じが、むしろ、するというか、割と全部強い言葉なんだけど言ってることはシンプルで、かつ灼けてる物も別にふつうに橋なんよね、なんか作者にしては鬱屈がある感じもするというか、ちょっと気になった一句だったなあ。

和:下五の展開が、澤調ってやつですか?

𩵋:そういえばどうなんかねえ、澤調のほんまの定義がわからんけど、それっぽいけどそうでもないのかなあ。

和:適当なこと言ったわ。澤調よくわからん。てかそんなものをあると見なしていいのかも怪しいしな。火事系の句っておもしろくなりすぎて難しいと思うんだけど、結構意味内容はすっきりしてるよね。この前の勉強会のみなちゃんの句思い出した。まなうらが白いうんぬんみたいな(みなちゃんの句は発掘できませんでした。)

𩵋:いや火事じゃなくて「灼けて」は夏の季語で、くっっっっそ熱いってことなのよ。むしろ橋の火事俳句は詠みたいな。

和:灼けてって火事扱いじゃなくてただ熱いだけか

無知無知を晒してしまったな。

𩵋:cute...////

和:まあじゃあふつうに、橋のあちあちな感じが目を閉じても伝わるぜってことね。視覚的な明るさの話じゃなくてね。あ、でも日中だろうから日に照らされて眩しくなってる、みたいなニュアンスもあるか。

𩵋:眩しい感じはめちゃくちゃあるね。なんか欄干だけ鉄製みたいな橋あるよね。ていうかそういう橋の方が多いか。

和:公園とかにあるちいちゃい橋以外は、まあふつうに耐久性の関係で鉄で骨格作るよね。表面だけ木とかにする。「眼とぢても」っていうけど、「ても」ってより、眼を閉じたからこそより灼けてる感じが伝わってくるところはあるよね。

𩵋:わかるなあ。眩しいのって目を閉じたときに光が焼き付いてるのがわかって初めて実感するみたいなところあるから

和:はいはい。ちいちゃんのかげおくり的な光の感じ方ね。

𩵋:それだわ。言いたかったの、……ということで、終わりですかね。

和:ないすぅ。

𩵋:いい句集だったな。というか勉強になった。この雰囲気なかなかない句集だから。相子さんのファンになっちゃうね。

和:初読時にはハマらなくても、他の人と読み合わせるとテクストの良い面が浮き出てくるという、読書会のシンプルな効能を感じましたね。あざした。

【第六回】大森静佳歌集『ヘクタール』

お久しぶりです。前回からかなり空いてしまったのですが、まだまだ焚火は燃えてます。

 

『ヘクタール』5首選

郡司和斗 

あなたより先に死にたしそののちのあなたの死後にふたたびを死ぬ

白壁を這う枝の影かろうじてそこにわたしはいたのだけれど

何年も泣いていないというきみが撮った桜のどれも逆光

水中から湖面をみあげていたような春、なまなまと二の腕太る

ドアよりも大きくなって眠りたいいつかあなたがいなくなる冬

 

本野櫻𩵋    

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ

横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所

祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場

録音に拍手は残るもういないひとたちの手の熱いさざなみ

 

 

郡司和斗:いままで選んでおいて触れないで終わった作品もあるから、今回からとりあえず5首喋ってから追加でさらに言及したいやつには言及する流れにするのはどうだろう。

 

本野櫻𩵋:よいと思います。『ヘクタール』を読んだ感想だけど、もちろん取り合わせる物の距離の感覚とか、言い切らない美学みたいなところもさる事ながら、自分の体とか顔とか、そこに流れる水分とか、そういう把握が立体的で凄いなあと思ったな。例えば〈切り株があればかならず触れておく心のなかの運河のために〉とかね、「木」という「物」という認識よりもっと冷たい「別個体」という認識、みたいな感じ。別個体と自分とのリンクと喩のバランスが気持ちいい。なんかね、SFぽい感じ。「かならず」とかね、若干マシンぽいというか。

 

郡司和斗:なんとなく、第一歌集と第二歌集の間にはすごい力の差があるけど、第三歌集は第二歌集の延長にあるなと思った。という最初の印象。身体感覚を使って異次元と繋がるタイプの歌は確かに上手い。

 

本野櫻𩵋:過去歌集は未読だから楽しみだなあ。そういう話を絡めて聞けるのは。

 

郡司和斗:どの程度読めてるか自分でもわかんないけどね。てか、桜魚さんヘクタールから読むの、なんかすげえ。先行ゆずるぜ。

 

本野櫻𩵋:それがビギナーズたまたまだよ。

 

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

 

表題歌だね。表題歌なのに(?)すごい好きだなあ。取り合わせがうまいのはもう言わずもがなうまいんだけど、さびしさの単位が㌶だなと思っても、なかなかネギをぶっこめない。葱がすごい。

 

郡司和斗:表題歌なのに好きって感想が出ちゃうのはわかる。表題歌、表題句って意外とハマらないからな。葱よなあ。これ葱畑なのかな。それとも一本手に持ってるイメージだった?

 

本野櫻𩵋:㌶だから葱畑だな。㌶って農家しか使わん単位だろ、ほんとは。

 

郡司和斗:やっぱ畑よな。そうすると「いまも」が結構効いてくるな。幼少期の原風景としての畑も立ち上がってくる感じ。

 

本野櫻𩵋:ガチ考察すると、ネギは「葱坊主どこをふり向きても故郷」寺山修司とか、絵本にも「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズとかあるし、なんとなく「懐かしい」と結びつきそうな野菜かも。

 

郡司和斗:ワンピースガチ考察に負けないやつ来たやん。

 

本野櫻𩵋:ヘクタールはシャンクスの双子の兄弟だった?!

 

郡司和斗:色の見栄えもいいよね。緑、白、青が浮かぶ。

 

本野櫻𩵋:いやそうなのよね。視覚的に健康。

 

郡司和斗:ガチ考察の話に戻ると、感傷的なイメージに葱はわりと万能で合う感じしない?

 

本野櫻𩵋:会うよね、なんでかね。

 

郡司和斗:やっぱ料理でネギは万能だから……。そんなわけないけど。

 

本野櫻𩵋:くどいかもしれんが葱さらに掘ると、恐ろしいくらいそのまま店に並ぶやん。あれやっぱ葱って畑にあってもわかりやすいのもあるし、垂直に出た青いところが直線にながーく並んでるから、規則性あってなんか㌶ぽいのよね。測量もあんな感じの棒で測りそう。ネギの青いところみたいなやつ。

 

郡司和斗:葱の形状とヘクタールっていう面積の単位は確かに親和性ある。線と四角、数学っぽい感じで。

 

本野櫻𩵋:うんうん。そうね。

 

郡司和斗:次いくか

 

あなたより先に死にたしそののちのあなたの死後にふたたびを死ぬ

 

郡司和斗:これもやたら人気がある気がするけど、意味についてはどこまで汲めばいいかなあ。あなたより先に死にたしって欲望は理由次第ではそれなりに共感する。あなたの死を知りたくないから先に死にたいとか、遠回しに相手に長生きしてほしいことを伝えてるとか、色々と解釈は考えられるけど、まああんまり詰められない。んで、あなたの死後にふたたびを死ぬ、んだけど、最初はいわゆる「人間は二度死ぬ」的なことを言ってるのかと思った。でもそれだとあんまりおもしろくなくて、やっぱり本当に二回死ぬイメージを深めていったほうが良い感じがする。

 

本野櫻𩵋:成仏、的なものかなと思うよね。あるいはオタク的誇張表現の可能性もある。「ガチで三回は死んだ」的な文脈。

 

郡司和斗:気持ちがあふれちゃってる的なノリがどちらにしても共通してるかもしれんな。先に意味の話をしといてあれなんだけど、この歌はどっちかというとリズム面で採ったところがある。あなた-そののち、あなた-ふたたび、のテンポの繰り返しがハマってる。

 

本野櫻𩵋:やっぱ「そののちの」で加速する感は気持ちが良いよなあ

 

郡司和斗:そののちは速く、ふたたびはどっしり。また意味内容の話に戻るけど、なんか、死んだあと復活するのはあるあるだと思うんだけど(キリストとか)、死んだあと再死するのはそのifルートに突入した感じがしておもろい。

 

本野櫻𩵋:うわー、なかなかいい読みだな。キリストおもしろいね。いや、なんかねやっぱり安易な読みになっていってしまうのよね。死を見届けたくない取り残される悲しみもあるけど自分が死を看取りたい気持ちもあるみたいな。わりとストレートの読みだけど、他の誰にも看取られたくないみたいな独占欲がみえるのはすごいよかったな。郡司くんが詰めなかったポイントだけど。

 

郡司和斗:まあまずはその二律背反した欲望を読み取りますよね。

 

本野櫻𩵋:その上でキリストが出てくると読みも解釈も加速していいね。

 

郡司和斗:今言ってもらったやつは安易というよりか、読みの出発点な感じがするので、言葉にしてもらって良かった。すっとばした感あるので。

 

本野櫻𩵋:お、ならよかったなあ。つぎでいいかな?

 

郡司和斗:つぎええで。

 

糾弾はたやすい、けれどそのあとは極彩色のしずけさなのだ

 

本野櫻𩵋:糾弾が何かとかはよくて、「極彩色のしずけさ」ってほんとにすごいところ突いてきたなと。極彩色は、綺麗な反面毒々しくあって、しずけさに余韻が残る感じはとても的を得てると思う。

 

郡司和斗:極彩色のしずけさ、ってよく見つけたよねほんと。

 

本野櫻𩵋:しずけさ詠みたくなるのわかるけど陰陽の陽で持ってきたの驚きますね。

 

郡司和斗:糾弾って非難することだけど、字面的にモノホンの銃を連想できて、発砲後のしずけさのイメージとも重なってくる。陽の静けさ、わかる。

 

本野櫻𩵋:またいい読みしてるじゃん。いい読みしかできない病気だよもう。

 

郡司和斗:ありがとう。ふつうは陰で静けさを表現したくなっちゃうからな。

 

本野櫻𩵋:そうなのよね、しずけさは寂しさとかくすぐったい感じにしたくなっちゃうけど、意外と極彩色でもいけるんだよ。すげえなあ。

 

郡司和斗:解釈するときに糾弾を留保しておく場合、割と極彩色の話したらそれで終わるな。

 

本野櫻𩵋:糾弾は触れづらいわけじゃなくて糾弾であることが重要で、糾弾それ事態がなんであろうと極彩色の静けさがあれば成立してしまうのよね。

 

郡司和斗:糾弾の内容それ事態がなんでもいいのは俺も同じなんだけど、糾弾っていう行為に対する主体の判断はちょっと読みに行ってもええんかなとは思う。あれ? なんか桜魚さんと同じこと言ってるかもな。この歌、「なのだ」っていう終わり方がめっちゃ価値判断しているように感じるさせるんだけど、読めば読むほど糾弾のたやすさに対してどういうスタンスを取っているのかわからなくなるんよね。んでこの歌ではそこもおもしろいポイントだなと。「けれど」が論理の補助輪のようであんまりよくわからんのよね。まあ別にこういう負荷の作り方は短歌で珍しくはないけど、極彩色のイメージと相まって目眩がしてくる。トリップ感っていうのかな、そこも良さだなと。

 

本野櫻𩵋:うーんなるほどね、トリップ感ね。

 

郡司和斗:トリップてかなんか、一瞬風呂上がってくらってするやつかも。

 

本野櫻𩵋:それもうトリップなのよ。

 

白壁を這う枝の影かろうじてそこにわたしはいたのだけれど

 

郡司和斗:この歌集、何かをアピールするような短歌が目立つというか、目立ちすぎるんだけど、その中でこの歌はわりとふわっとしていて、ちょっと抜けている感じがいい。

 

本野櫻𩵋:うん。「白壁を這う枝の影」から「いたのだけど」はなんかテクニカルだね。モチーフの視点の移動が実体→影だから。「いたのだけれど」は読める。フィールド(壁)を見せてから枝をみたのに結局は影だったという。

 

郡司和斗:壁に枝の影が写っていて、そこに「わたし」が立ち寄ったか突っ立ってたかしてる。状況としては「なんかそういう経験したことあるかもな」くらいのこと。「かろうじて」にひねりがあって、「わたし」の存在がゆらいでくる。一読したときは実物の「わたし」がいると俺は解釈したけど、「わたし」もある種影のような存在に思える。「かろうじて」が倒置法みたいに上の句にかかってる感じも少しだけして、「枝の影」と「わたし」の像が重なり合うような印象も持つなと。

 

本野櫻𩵋:ていね〜、いいね、わかる。「かろうじて」たしかにかなりクリティカルにあるな。「かろうじて」読み取れてなかったけどかなりいいな。

 

郡司和斗:なんか、個人的にだけど「かろうじてそこにわたしはいたのだけれど」って感覚は日々日常を生きていてずっとある。下の句がクリティカルだからこそ、わりかしささやかな上の句が効くなあ……。あと言いさし。一首の終わり方にちょっと重みが出る。それによって「わたし」の陰影もまた見えてくるなあと。好み別れそうだけど「這う」もおもしろい。影はふつう二次元だけど、這うと言われると3cmくらい浮いてきている感じがある。あとこれは伝わるか微妙なんだけど、自分の視野の後ろにも空間を描いているところも良いな。壁に枝の影が写っていて、歌の中のカメラはそこを捉えているんだけど、カメラの斜め後ろあたりに枝本体の気配を察する。レイヤーが重層的。

 

本野櫻𩵋:うーんなるほど、言われてなんとなく理解できるな。レイヤーが重層的なのはほんとにそうやね。やっぱり「いたのだけれど」の滲み出る悔いみたいな部分と呼応するな。あるいは、いたはずだった、気づいたらいなかった...?みたいなのでもいいね。景にも精神にも虚構があるよね。

 

郡司和斗:確かに、このまま消えてしまいそうな、気づいたらいなくなってしまいそうな雰囲気。そこ詳しく聞きたいな。

 

本野櫻𩵋:そのままの意味で、景もパキッと決まってるわけじゃなくてそれこそ重層なレイヤーがある状態って複雑で不安定でもあるから虚構ぽい、影の概念とか、精神でも、そこにいた...?いたはずなんだど...という不確証な感覚がある。すると景にも精神にも虚構があるよねってはなし。虚構がわるかったか...?なんだろうどちらも不安定だよねというか。

 

郡司和斗:不安定さ、か、しっくりきた。話したいところは話せたな。次いこか。

 

横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所

 

本野櫻𩵋:顔の歌がべらぼうにうまい。棺に入った状態では正面の顔を覗き込むから、という読みよりは、横顔が美しいのは生きてるからだ、という読みにしたいんだけど。まず、横顔「というのは」と客観性を持たせて主観と距離を置いたのもテクい。けど「しかない」と強いのもまたいいバランス。

 

顔の裏で顔のミイラが待っている 眉剃った夜は水を欲しがる

 

本野櫻𩵋:これも顔の歌ですきだった。ほんとに関連性があるかはわからないけど、なんとなく似てる気がする。

 

郡司和斗:金木犀の歌については、やっぱまずは棺のイメージを想起したな。その後に散歩とかしてる人の横顔が浮かんできて、金木犀が降ってくる景に繋がった。別に死者にも横顔はあるんだけど、言論空間に流通してる死者のイメージをコントロールするのがちょっとうますぎますよね。一読して「ああ確かに……」って納得する。死者って正面向きがちやん。棺もそうだし、遺影もそうだし。報道するときとかもふつう正面の写真。「というのは」と「しかなくて」のバランスは、うん、すごい。

 

郡司和斗:ミイラの歌、実はあんまりよく良さをわかってないんだけど、上の句と下の句のつながりどう読んだ? ミイラ→干からびてる→水欲しがる くらいの連想?

 

本野櫻𩵋:これちょっと言語化する能力なくて紐つけて話せない感じするから普通に好きな顔の歌ってことで読むわ。一旦仕切り直して最初から読むね。今言ってもらった金木犀は読みの出発点な感じがするので、言葉にしてもらって良かった。ふつうに素で読みの段取り踏むの忘れてた。言語空間に流通している死者のイメージもそうなんだけど、やっぱり『ヘクタール』の短歌は文章として読めるバランスの良さがあるのよね。短歌というより、短い文章という感じ。それはこの歌では「決めつけ」と「在るもの」のバランスなんだけど、詠み手の自分勝手と、実際に見えてくるもののバランスが常に最善を考えられて配置されてるよね。という意味では、他の顔の歌の

 

顔の裏で顔のミイラが待っている 眉剃った夜は水を欲しがる

 

とかも、バランス良いのよね。この歌はそのまま読めるんだけど、水を欲しがるあたりが絶妙で、ちょっと言語化難しいんだけど「逆」な感じするのよね。眉剃ると見た目としてはミイラに近づくんだけど、顔の裏のミイラは水を欲しがっているって、要は生体に戻りたがってるわけだよね。こっちはミイラに近づくんだけどミイラはこっちに近づいてくる。なんていうかなこのバランス。ぜんぶこれ。散文として良いっていうのは語弊があるといけない。短歌としてすばらしいという話の延長線上のはなしね。

 

郡司和斗:あー、おもしろいイメージやな。歌の中で主体と対象が互いに引き寄せられる感じね。てか桜魚さんが大森さんの短歌を読んで散文寄りに捉えるの意外だった。

 

本野櫻𩵋:こういう主観と客観のバランスみたいなのは結構散文のほうが気付きがあるよ。最近よんでる人で、散文じゃないんだけど、詩人の朝吹亮二さん、自分の中ではヘクタールと共鳴してた。やっぱり大森さんの短歌は韻律を強く感じるというよりかは内容と構造で魅せてくる感じがする。朝吹さんもそう。そして散文はやっぱりそういうものだから、だからわりと散文よりに捉えたくなる。というだけの話しなんだけども。

 

郡司和斗:朝吹亮二いいよね。詩集読み返すかあ。なんかあの年代の詩人の作品は割とどれも構造とかコンセプトが魅力だよね。んで、大森静佳との重なりに関しては、まあまあまあそんな気がしなくともない、みたいな。

 

本野櫻𩵋:よみかえして。

 

郡司和斗:大森さんって短歌マッピングでいくと意味内容派というより抽象とか身体感覚とか言葉とか韻律に力点を置いてる人だと思ってたけど、文芸全体で見ると比較的意味内容で魅せる人なのかもな。知らんけど。構造で魅せるはわかる。基本的に現代文芸でおもしろい作品みんな構造で魅せてくるからな。散文が傾向として内容と構造で魅せる方向に寄りがちなのもわかる。どうしても他ジャンルと比較して文章としてまとまりができちゃうもんね。

 

本野櫻𩵋:短歌マッピングではその位置なのか!

 

郡司和斗:尖ってる若手だけじゃなくておじいちゃんおばあちゃんの歌人とか全部入れるとね……たぶん。

 

本野櫻𩵋:いや、わからなくはないよ。韻律も十分素敵です。

 

何年も泣いていないというきみが撮った桜のどれも逆光

 

郡司和斗:あんまり語ることもないんだけど、他愛もなさがいいなと。何年も泣いていないきみに対してどういう思いがあるんだろう。もし友達とか恋人に何年も泣いていないって言われたら、俺なら本当にほんのちょっとだけ切ない気持ちになるかなあ。んで撮った桜がどれも逆光で、綺麗には写らなかったわけだけど、光で見えなくなっている桜への隔たりと、きみとの距離感が重なってくる印象を持ちました。歌集の中でもあんまり気負ってない感じがして、そこも好みかな。

 

本野櫻𩵋:うーん、その印象すごくいいね。僕はね、逆光の桜ってそんなに悪くなさそうでむしろ綺麗なんじゃないかなと思うね。蝙蝠傘に小さい穴開けると擬似プラネタリウムになる要領で、桜から光が漏れてる感じはちょい涙ぽくもあるね。

 

郡司和斗:あ、そこは俺も同じ。ここでいう「綺麗」はカレンダー写真的な一般的な写りの整い具合のつもりだった。逆光の方がむしろ綺麗ってのはあると思う。「葉桜の中の無数の空さわぐ」篠原梵、じゃないけれど、桜越しの向こう側に光源があって、きらきら光がこちら側に漏れる感じ。

 

本野櫻𩵋:はいはい。他愛なさが素朴な良さがあるな。大森さんの短歌、ヘクタールだけしかよんでないから偉そうなこといえんけど、なんかこっちにくる(短歌を読む)時点ですでにバランスがいいから、絶妙に深めの考察が常に気持ちいい感じがするな。

 

郡司和斗:一首のなかで意味を回収しきらないように作ってると思うんだけど、かといってシュルレアリスムとかオートマティスムみたいに辻褄が合わないようにイメージを繋いでいるわけじゃないから、読んでいて絶妙に何かを掴めた感じに読者をさせるなと思う。

 

本野櫻𩵋:本物じゃん

 

郡司和斗:本物だったらいいね。次ええよ。

 

祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場

 

本野櫻𩵋:なんかやっぱりミイラの時も話したことになっちゃうんだけど、自分と自分の皮みたいな感覚が鋭くあるよなあという思い。「無表情を褒められるとき眉間だけ破れたはなびらみたいに寒い」これなんかあわせて読んじゃうと面白かったりして。眉とか眉間とか、そこらへんが大森さんのネザーゲートなのかなっていう。

 

郡司和斗:評でネザーゲートはじめて聞いたわ。ひろく身体感覚一般が一首の跳躍を可能にする詩学だとは思う。大森さんの歌はどの歌も一様な解釈を拒む側面があるけれど、身体がネザーゲートになってくれているおかげで不思議とついていけちゃうのよね。祈るとき眉間に露出するものをわたしと呼びぬ夜の踊り場、をまず読んでいくか。祈るときは確かに眉間あたりに意識が集中する感じがするから、連想としてはそこまで負荷なくつなげられる。そこ(眉間)にナニカが露出してナニカを「わたし」と呼ぶってところに謎の迫力があるよね。眉間が窓になって小さい人がこちらを覗き込んでいるみたい。最後を「夜の踊り場」で落とすのは若干詩的既製品感あるけど、この静けさのなかでこそ四句目までのちょっとギョッとする異空間が際立つような気もする。

 

本野櫻𩵋:すごいなと思ったのは、「露出」という言葉選びで、例えば「現れるもの」とか言うこともできるんだけど、露出という若干淡白で文書的な語彙が選択されたことに、祈りの臭みを消していると言うか、祈りが若干軽薄になっていくようなものを感じるのよね。露出という言葉のイメージが祈りにかぶさってくると、祈りがスピリチュアルなものと離れていく感じがする。そして露出しているもの自体を私と呼ぶと言うことで余計にそれが強化されるという。

 

郡司和斗:あ、すげえ、そうや。露出って言葉、日常生活ではニュースでしか聞かないしね。祈りが持つ毒の部分に自覚的。

 

無表情を褒められるとき眉間だけ破れたはなびらみたいに寒い

 

これも、はなびらの良さを殺さず、それでいてはなびらって言葉が持つ過剰なエモさを「破れた」「寒い」の言葉回しで上手く脱臭していると思った。

 

本野櫻𩵋:ナイス。無表情を誉められるって言うのも若干茶化されてるかんじあるよなあ。これbacknumberのはなびら思い出したのよな。歌の内容とは全然違うんだけど、はなびらのさみしさみたいな文脈で。……無表情を褒められるをもうちょっと言及したいんだけど、茶化しの文脈を置いといて読むと。すごい一生懸命やったことがあんまり評価されないのに全然力抜いたことがすごい評価されることってあるよねみたいなのがむしろファースト読みかなと言う感もあり。無表情を褒められるも無表情であるから何かしているわけではないので、そこを褒められてしまったことへの切なさというか、ほろほろと感情が崩れ落ちて来る感じはたしかにはなびらと呼応するし、そして眉間という場所も確かにわかる気がするのよね。眉間ってなんかね、熱を持つ感じがある。

 

郡司和斗:皮肉っぽさもあるよね。無表情を褒めるって。リフレーミングみたいな前向きさはあまりない。そもそも人の表情に褒めるもクソもないと思うし。どこから目線やねんと。

 

本野櫻𩵋:そうね。確かにあんま思わんかったけどルッキズム的な文脈でもあるか。

 

郡司和斗:ルッキズムかどうかはわからんけど、表情ってその範疇なんかな?

 

本野櫻𩵋:やっぱ表情ってところが大事よな、表情ってつくるものやん。だから、無表情を褒められるっていうことのむなしいかんじなんだよね。ルッキズムかどうかわからんけどやっぱそれね。ちなみにわいは無表情だと機嫌悪い?って聞かれる。

 

郡司和斗:笑。普段の機嫌が良すぎる説あるな。

 

本野櫻𩵋:普段おしゃべりな代償で無表情を捨てなければならないの陽気なモンスターじゃん。

 

郡司和斗:俺は普段からポーカーフェイスだから何も言われんよ笑。悲しい陽気なモンスターか。

 

本野櫻𩵋:ぜったい言われないだろうなあ、闇が深すぎる。

 

郡司和斗:いやでもね。自語りにズレるけど、ふつうに子供にはビビられるわ。無表情やと。

 

本野櫻𩵋:何考えてるかわからんくて怖いんよ。子供はめっちゃ表情みるしな。

 

郡司和斗:だからこそ、「みんな俺のことビビってるでしょ!」って言うと割とウケるという笑。

 

本野櫻𩵋:(笑笑)この間Twitterでみた赤ちゃんの実験で、楽しく遊んでる母親が急に真顔になったらどうなるかっていうやつやってて。最初は気を惹きつけようと笑ったりがんばるんやけどそのうち泣き出すんよな。

 

郡司和斗:赤ちゃんのやつ気になる。後で見よ。

 

水中から湖面をみあげていたような春、なまなまと二の腕太る

 

郡司和斗:水中から水面をみあげるイメージはアニメのOPとかでありそうで、まあわかる。てかアニメ云々言わなくても、誰しも一度くらいは水泳の授業で似たような情景を経験したことあるだろうよ。そういう感じの春だなあと主体は思っていると。春って気候的には爽やかだけど、心理的にはざわつくことも多くて、その中間のぬるぬるした感傷を上の句からは読み取った。憧憬、息苦しさ、眩しさ、いろいろ混ざった感じね。そこに取り合わせとして「二の腕太る」が来るのが好きやなあ。二の腕をチョイスが妙に味ある。日本って太ることに否定的な価値観がそこそこ規範化してると思うんやけど、あんまりこの歌ではその印象はないね。むしろ迫真さを以って二の腕が太ってくる。上の句は回想っぽくて、下の句は今の話っぽいんだけど、どうだろう、「水中から湖面をみあげていたような春、その春になまなまと二の腕が太った」くらいで解釈してええんかな。

 

本野櫻𩵋:なまなまと の措辞がなかなか言えないよね。春の霞、朧みたいなところは俳句的でもあるなと思うな。ただ、気候的な部分だけじゃなくて心理的なアプローチもあるのが絶妙なポイントよね。

 

郡司和斗:「春、なまなまと」の韻律のギア変速もおもしろい。一字空けだともっとゆっくりすると思うんだけど、句読点だと前かがみにつっかえた感じがして、春の「春ッ」みたいな。俳句っぽい話でいくと、「春」と「太る」って若干近い気がするんだけど、やっぱ「二の腕」のチョイスが絶妙だと思うんよなあ。

 

本野櫻𩵋:春ッwwwウケるなその評。二の腕いいねえ。なんかあれ思い出すね津川絵里子さんの自転車と繋がる腕の句。

 

郡司和斗:あ、懐かしい。『夜の水平線』回はこちら

【第一回】津川絵理子句集『夜の水平線』 - 詩歌の焚火

↓ちな句は、

自転車とつながる腕夏はじめ/絵里子

 

郡司和斗:大森さんの歌も、二の腕を媒介として春とつながっているのかね。身体と季節の連続性というか連結って、生き物ほぼすべてが持っている基盤だから(ほら、みんな季節の変わり目で風邪ひくし)、そこが読者がこの歌に体重を預けられる要素のひとつになっているなと思います。

 

本野櫻𩵋:まちがいない。今回いい評してくれるから同意しかしてないな。

 

郡司和斗:短歌全体でいうとそういう作り方って個人的には食傷ぎみなんだけど、それでも読ませてくるからヘクタールすごいな、と感じますね。

 

録音に拍手は残るもういないひとたちの手の熱いさざなみ

 

本野櫻𩵋:最後やね。実は焚火創刊号で取り上げた堀本裕樹『一粟』回に

 

レコードの古き拍手や秋の夜

 

という句があって、これは同じテーマで俳句と短歌の違う良さが出てるからひきました。これは曲の話をしたいんだけど、俳句の方はしっとりと例えば僕はジャズとかを想像するんだけど、flymetothemoonのフランクシナトラとかね。短歌の方はロックバンドとかbeetlesとかを想像するんよね。それは「熱いさざなみ」と、短歌だからこそ言えるというか、いや逆に俳句だといえないディティールなのかもしれないけど、まさにそこにあるなって思ってすこし感動したのよね。

 

郡司和斗:おれは逆に俳句なら「熱いさざなみ」って言わなくていいことに感動している。堀本句はまあジャズやろな。句以外の本人情報を加味しすぎて解釈しているけども。大森さんの短歌は、そうねー、なんか観客が熱狂してる雰囲気伝わってくるから、確かにロックとかそっち系な気がする! レコード句についてはクラシカルな雰囲気がしみじみいいつすね。

 

本野櫻𩵋:そうなのよね、となるとやっぱりレコードのニュートラルのイメージってジャズなんやな。

 

郡司和斗:それか古い日本の歌謡曲。ショーを録音したやつみたいな。歌にもどると、「もういないひとたち」でどのくらいの前の年代かざっくりイメージしやすくなってるのが親切だなーと思う。鑑賞者側に思いが寄っていってるのも特徴というか、名もなき側へ肩入れっぽい感情ってありますよね。共感するかは別として、あるなーと。

 

本野櫻𩵋:録音に拍手は残る もういない の流れが気持ちよくていい。

 

郡司和斗:他人事のようで淡い感覚が続いていくのかと思いきや、「熱いさざなみ」で当時の匂いが思い起こされる感じというか、歌の奥にグッと寄っていくところ。

 

本野櫻𩵋:それも特徴やね。やっぱ熱狂は観客が作り出すからね。

 

郡司和斗:私からはそんなもんかな。

 

本野櫻𩵋:わいも以上や。

 

郡司和斗:じゃさいご。

 

ドアよりも大きくなって眠りたいいつかあなたがいなくなる冬

 

郡司和斗:眠る短歌すきなんよね。俺基本。ほら、俺ロングスリーパーだから。眠るとき身体がデカくなる発想、これあるなあ。デカくなるってか身体がふやけてペターンってなるっていうか。ドアの大きさだけじゃなくて平たい感じもわかるわ。んでもってこれは願望であって叶っているかはわからないんよね。いつかあなたがいなくなる冬に、ドアよりも大きくなって眠りたいわけでね。あなたがいなくなるのは、死ぬって意味なのか別れることなのかはわからないけど、どっちにしても大きな喪失やね。ドアがなんていうかな、「あなた」と「わたし」を繋ぐものであると同時に隔てるものでもある気がするな。それでここがこの歌の不思議さなんだけど、ドアになりたいじゃなくてドアよりも大きくなりたいなんだよね。「ドアになりたい」より「ドアよりも大きくなって〜たい」のほうが不思議な欲望の感じがして、主体の思考の深みを見させられたと思った。ドアと同化しつつでもドアではないというねじり。

 

本野櫻𩵋:ドアよりも大きくなるって身体感覚として“届きそう“っていう大きさなのがよいのよな。「いつかあなたがいなくなる冬」もそうなってしまう可能性があるという二つのことが絶妙に親和性がある。深読みシステム発動すると、あなたが出ていくときのドアから出ていけないようになりたいみたいな意味にも取れそうだし。そして「いなくなる冬」と断言しているのもどこか切ない。

 

郡司和斗:そうなの、届きそう感。スカイツリーより大きくなって、だと損なわれる何かがある、この歌には。てか深読みシステム発動してニュータイプになってるな。「あなたが先にいなくなること」と「いなくなるとしたら冬であること」が既に確定しているっぽいの確かにおもろい。「いつか」と「今」の時間が混ざり合うような感じ。あるいは予言、予感。詩歌の呪術っぽさも出ているようや。

 

本野櫻𩵋:「あなたが先にいなくなること」が確定しているなら寝てる場合じゃないんだよね。せめてドアより大きくなりたいみたいなね。詩歌の呪術わかるね。呪術廻戦詩歌編だね。

 

郡司和斗:まあそれか、私よりも先に「あなた」がいなくなる、と私が認識しているという解釈よりも、主体が少し高い次元から「あなた」の生を超越的に俯瞰していると捉えた方がしっくりくるか。

 

本野櫻𩵋:なるほどね。ん? それは気配がしているってことじゃなく?ってあなたがいなくなる気配がしているってこと?

 

郡司和斗:俺は勝手に意味をおぎなって「いつかあなたがいなくなる冬」をあなたが私より先に死ぬか失踪するかしていなくなるって解釈しちゃったんだけど、それだとちょっとズレるなと今気づいたの。

 

本野櫻𩵋:ほうほう

 

郡司和斗:確定はぜんぜんしてなかった。

 

本野櫻𩵋:たしかにね、確定はしてないね、そういうことね。俯瞰的な意識ってことに言い換えたいね。

 

郡司和斗:死別とか離婚みたいなリアリティの次元で下の句を読んで味わうより、その視点の構え方に言及したほうが良かったな、と思い返したという、やつ。

 

本野櫻𩵋:いや、それはあれか、あなたが近い将来いなくなると認識しているとドアよりも大きくなって眠るということと繋がりすぎちゃうということか。こうしたほうが余裕があるというか。

 

郡司和斗:意味的な話では、そうね。

 

本野櫻𩵋:僕がうまく汲めてない可能性あるけど上の句と下の句のバランスが良いということは非常によくわかった。

 

郡司和斗:いやいや、聞いてくれてありがとう。まあ俯瞰的な意識って桜魚さんが言ってくれた感じです。語り手がどの地平に立っているのか考えたほうが、最終的に意味の話をするとしても建設的やなと思ったっつぅー。こんなもんすかね。今回は。

 

本野櫻𩵋:短歌読むのいまだに慣れなくて難しいけど、少しずつ気づきがあって楽しいねえ。次回も楽しみです!

 

郡司和斗:空中戦も好きだけどできる限り一つの作品をじっくり読むやつを今後もやりたい。お疲れしたぁ!

 

【第五回】大木あまり句集『遊星』

大木あまり『遊星』

 

 

本野櫻𩵋十句選

3・11灯すことさへはばかれり

逝く人に声かけつづけ南風

支柱なき苺畑や雨の音

躓くや涼しき尾つぽなきゆゑに

アイマスクして梟を思ひけり

蒸し浅利大盛りにして隙間あり

さよならは朝顔に水あげてから

春ショールふはりと我は根なし雲

ぶらんこの鎖のよぢれ西日かな

死神は美しくあれ膝毛布

 

郡司和斗十句選

死神は美しくあれ膝毛布

こほろぎや風呂場のタイル一つ欠け

松の木のまだ濡れてゐる夜店かな

水の音なき水の辺のあやめ草

蒸し浅蜊大盛にして隙間あり

囀や立方体の友の家

かなかなとゐてすこしだけ賢くなる

あかあかと減る楽しさやかき氷

長き葉に蝶たれ下がる泉かな

つぎつぎに鳥くる山の笑ひけり

 

 

 

 

魚:はじまったあああああ〜〜!!!


和:今回は大木あまりさんの遊星ということでね。


魚:結構かぶっている句もあって楽しい話になりそうですねー全体の感想としてはどうでしたか?


和:前半は世の中のシリアス、後半は自分事のシリアスが話題なっててヘビーだったね。


魚:たしかに。でもその中に、生きているからこそ見つける軽やかさもあるように感じたな。

和:同じく、滑稽みやユーモアを大切にしていると思いました。


魚:早速一句ずつ読みますか。

和:先攻どうぞ!

魚:それじゃあ、序盤から触れていくか。

 

3・11灯すことさへはばかれり


魚:句集の序盤は震災について目を向けた句が並ぶんだけどこの句はまさにそのど真ん中だったね。自分は北関東在住で、いちおうは当事者としてあの震災を経験したけど、東北の被害が大きかった場所を考えると、明かりを灯すことさえはばかれてしまうことがすごくわかるなぁ。夜にはかなり強い映像が報道されていたしね、今となって考えるとゾッとするけど当時ふつうに人が流される映像とか流れてたよね。


和:今このとき暗闇で凍えている人がいるのに自分は灯をつけていいのだろうか、みたいな感じかね。「さへ」が強く響くというか、灯すってあらためて生活をする上で必須だったな、みたいなことを思う。俺も震災のときくらいしか電気も水もない経験はない。


魚:ほんとにそうだな。でも、震災の時は住宅街に見える小さな灯りでも救われたな、ほんとうに世界が真っ暗だったから


和:たしかに。灯してくれたほうがありがたいね。なんというか、これまでの自分たちの生活が政府の適当な安全神話で作られていて、それに自分が甘えていたことに対する後ろめたさもあるのかもしれない、とも思った。


魚:あと、構造の話だけど、〈3・11〉の上五はすごいよな。


和:なるほど?


魚︰〈震災や灯す〜〉じゃないのよ。〈3・11〉ドン!なのよ。これはあれね、覚悟を感じるわね。


和:やはりそうか…「覚悟」…伝わりました…。


魚:伝わったな……なんでそんなしみじみ(笑)。


和:俺があげた句の中で関連したのだと

 

囀や立方体の友の家


かしらね。句集の中の配置的に。


魚:これって震災詠でよんだ? どっちとも読めるのよね。


和:友達の家にいってみて、そしたらいろいろ物が壊れていたり、なくなっていたり、そういうのを目の当たりにした。そういう空間ができた家をまじまじと見たときに、立方体って言葉が出てきたのかなと。

それかーたぶんこっちのほうが本筋なんだけどープレハブのことを書いているのかなと。

避難してきて白い箱みたいな家に住んでいる友達に会いに行ったときに、ああ囀が聴こえるなあ、みたいな、なんとも言えない、緊張と脱力が同時にやってくるような感じ。

一句だけ抜き取ると滑稽な句になるのがまたなんともね。批評性を高めていると思う。


魚:立方体という限りなく形式として捉えているのが暖簾に腕押し感というか、あまりにも簡単な事象としてみている感じが、制御が効きまくっているな。


和:形式的に(もしくは抽象的に)とらえたときの制御感、わかります。

他に視覚的な情報ないほうがよさそうやし、囀の選択もいいと思う。


魚:次行きましょうかね、せっかくなのでどうぞ。


和:かぶってるやつからにしようかな。

 

蒸し浅蜊大盛にして隙間あり


これはストレートに発見とか写生がうまいやつっすね。

トリビアルな句が少なめな句集だと思うんだけど、これはそのなかでけっこう目立つね。


魚:これは面白かったですね。

こういう視点はあまりさんの句では珍しいように思えるな。

〈にして〉とか簡単そうに使ってるのかっこいい。


和:〈にして〉の強調はおもしろいよね。なんか、句にできたことをすごく喜んでそうな主体像が浮かぶ……。

4回転ジャンプきめたあとの羽生くんみたいな。

でもあんまり嫌みがないのは、〈隙間〉を見つけたことの凄みがはんぱないからなんだろう。


魚:そう、それなんだよな、その喜んでる感が滲み出てる感じがあまりさんのいいところで、言葉にわたあめぽい軽さがある、ちゃんと甘いけど質量の軽さというか、言ってる意味薄いとかではなく、なんかうれしそうなときがありそれが読んでいて伝わる感。

 

さよならは朝顔に水あげてから


魚︰これはずっと好きな句なんだけど、これって道場破りみたいなことしている気がして、俳句って言いたいことをむしろ制御したいよねみたいな前提があるけど、ずっと感情だけで殴ってくる感じなのよね。作中主体の気持ちだけを考えたら、さよならは寂しい、けど朝顔に水をあげることで少し整理していて、でもあげおわるまではそばにいて欲しくて、そういうあたりまえの寂しさとか後ろ髪引かれる感じを、整理の時間である水やりに変換をしていいるのが“やばい“と思うわけです。


和: aの音の繰り返しがあたたかいイメージを連れてくる感じが俺はあったかなー。


魚:たしかにね、韻律としても柔らかいイメージやね。


和:字面もいいよね。

「さよなら」と「朝」が近くに配置されているとそれだけで謎の爽快感があるというか。

「水」もそうか。


魚:モチーフも良いですね...…。


和:モチーフね、さよならはストロングゼロ飲んでから、だと台無しやからな……。


魚:ありえん。最っっっっっっっっ悪や..........。


和:痛すぎるな。


魚:次は、なんかね、あまりさんの独特の楽しさの話したから、それに少し関連して。

 

春ショールふはりと我は根なし雲


この句は前提というか、他にも「遊星」には沢山の「雲句」があって、そこと読み合わせるとなんだかじんわりする。

前提として、句集にずっと存在している死とか苦しさみたいな部分に深く意味付けて読むというよりは、あくまで優しい読みをしたいんだけど。

例えばね、

 

母の日の掴めるほどに雲近し


とか

 

アッパッパ空には根なし雲ばかり


とか

色々な雲を読んでるから、それが自分自身だって最後の方に言われるとなんか面白い感じしちゃって。


和:確かに猫もやたら出てくるけど雲もやたら出てくる句集や。

雲句は割とどれもユーモア路線だね。母の日の~とかはちょっぴり切ない。もとの句の話に戻ると、根無し雲って言葉自体が比喩的なのに、そこにさらに「我」が被さっていくところがおもしろい。意味的にも形式的にも「我」がふわふわしている。


魚:根なし雲ってなんか離俗的でもあるから、九鬼の「いきの構造」思い出すね。いきの3要素が「離俗」「耽美」「自然」なんだけどこの句はなんか全部当てはまってる気がするからいきだね。


和:次いくか。

 

かなかなとゐてすこしだけ賢くなる

 

ひぐらしと一緒にいると(私は)少しだけ賢くなるなあってだけの意味だと思うんだけど、妙な怖さがあっておもしろかった。


ひぐらしの鳴き声って「かなかな」ってより実際は「きききききき」だと思うんだけど、その鳴き声って夕方に聴くにはやや不気味というか、冷や汗がちょっと出て我に返るところがある。そこに「賢さ」を合わせてくる感覚ってあまり見たことなくて、新鮮だった。


魚:この句もおもしろいな。

「賢さ」って色々解釈できてしまって、ずっと賢ければいいってわけでもなくて、賢くないほうがいいときもあって、賢くなりたくないときもあって、かなかなを聞くと色々な概念とか本意とかを理解してしまうような冷静さを帯びるみたいな。

んー、説明が難しい。

どこか冷静になって、かなかなを帯びてしまう。

ドラマとかでさ、刑事に徐々に追い詰められた犯人が一点を見つめてボーッとしてるシーンで尻上がりにかなかなの音が大きくなる演出よくあるじゃん。あんな感じするね。


和:暗転してアイキャッチ流れる前のシーンだ。

「賢くなる」の字余りがなんか賢くなさそうなのもちぐはぐでおもしろい。「かなかな」って字面もなんかまぬけっぽいし。


魚:たしかにまぬけ感もあるかもな(笑)かわいい。


和:「とゐて」も位置関係の把握が雑でちょっとぽやっとしてるんだけど、この句ではこれで問題ないと思う。

次どうぞー。


魚:死神いっちゃいますか。

 

死神は美しくあれ膝毛布


なんというか、膝毛布まで飛ばせるのがまず凄いというか…。〈死神は美しくあれ〉までだったら彫刻とか絵画とか、美としての美になるんだけど、膝毛布としたことで、死神が本当の意味での“死”の象徴になるというかね。死と美は近いけど、膝毛布を介すと近くない。うーん、これは本当に俳句の構造的にいい部分を掬い取った作品でもあると思う。


和:読んだ瞬間、暖炉の前で椅子に座っている人の姿が目に浮かんだ……。


魚:ほんまそうな。


和:たぶんゆれるタイプの椅子。そしてなんか編み物してそう。

死神のことを考えているからといって死が近いわけではないんだけど、なんとなく自分の命のリミットを肌感覚で自覚している人って気がするよね。

そんでその死の象徴である死神に対して美しくあれって思えるある種の達観それ自体が美しい。この作家の句柄がよくでた作品だなと思う。


魚:ほんまにな。言いたいこと言ってくれた。


和:句集の宣伝用に抜かれる一句に納得いったことってあんまりないけど、これは大木さんっぽくてぴったりだと思うな。


魚:それマジでそうな。

 

あかあかと減る楽しさやかき氷


魚:はいはい、この句はあれですね。ネタバラシ中七やだね。


和:楽しさっていっちゃってるからね、でも言わずにはいられないっしょ、この楽しさは。


魚:第五句集「星涼」から《隠し翅みせて骸やいぼむしり》もネタバラシのや。

けっこうこのタイプあるんですよ。染み込んでるシロップの色がみえてうれしいよね


和:てかネタバラシ中七って呼んでるんだ。


魚:この世で僕だけね。特許持ってるよ。


和:やの切れがけっこうポイントかもね。ネタバラシ感。


魚:離れてる切れっていうか報道される時の顔ぼかしアクリル板的な「や」。


和:あーそうわかるわかる。

俳句はじめたばかりのころよくわからんくてキレてたわ。意味上切れてないけど形式的には切れてる(切れってか詠嘆のニュアンス強め)のやつね。

なんか、減る楽しさに注目できる人がいちご味食べてるのってちょっと意外かも。


魚:うわああああああああ。おもろい話でてきたなあ。


和:あ、作中主体がヴァンパイアで血をかけているのかもしれないけどね


魚:何に配慮したらそんな読みになるんだよ。ていうか減る楽しさに着目できるやつはメロンだよな。


和:いいところ突いてきた。グレープの線もある。


魚:グレープあるなあああ。みぞれのやつはイキってるからね。みぞれはがんばりすぎやもん。


和:イキり(笑)。ごちゃごちゃたくさんかけるパターンが一番ないだろうな。


魚:みんなでブルーハワイにしとこや。かけ放題のところあったの懐かしいな。


和:たくさんかけちゃうのってあれだな、男子小学生だから。やっぱ男子小学生はかき氷減る楽しさに気づかないっしょ(めちゃくちゃ発言)。


魚:気づかないなあ。増えてほしいじゃん。一緒減らないかき氷。


和:ロマンだ。ドラえもんでそういう話ありそう。

てか大木さんってドラえもん好きそう。猫やし。


魚:めちゃくちゃ言うじゃん(笑)ドラえもん好きだったらかわいすぎるな。次!

 

アイマスクして梟を思ひけり


これおもしろかったなあ。

思う句、蒼海8号寄稿の〈蛇の舌ふつと思へり雨の日は〉なんかは掲句より詩に寄ってるけど、主体が面白がってる感じがよんでてうれしかったな。


和:あ、おもろいなこれ。なんか『日常』でこういうコマありそう。


魚:でた!!!!!!!鴇田さんのときも日常の話したよ。


和:そうだったwww

評の特許とろうかな「これ、『日常』の一コマっぽいですよね」。


魚:wwwwwwwww

日常より雨宮さんシリーズとかの方がありそう。


和:「眠れない雨宮さん」って話あったら確実に作中でこの句の行為やってるな。


魚: 確実にやってるなwwww


和:アイマスクのくらやみのなかにスゥー……って浮かんでくる梟がシュールというか、じわじわおもしろいタイプの句だなー。


魚:見た目もちょと梟ぽいしね。


和:梟って森の守護者とか賢者って言うし、寝るときに思うと落ち着くんすかねー。


魚:森林浴的なね。アイマスクって森林の香りのやつあるよね。蒸気でホットになるやつ。

 

長き葉に蝶たれ下がる泉かな


和:ピントで遊ぶ句よね。

蝶のドアップからの、背景の泉に徐々に合う感じ。


魚:こういう丁寧なつくりは勉強になるよね。視点を動かさずに景色をまっすぐ捉えていく、言葉としては手前から順番通りに書いてるだけなんだけど。奥行きがあるといっきに俳句らしくなるというか。


和:空間性高めやね。なんとなく描写から、凪のような精神世界も伺える感じ。視線の誘導もうまい。上から下へなめらかに。いつ蝶が飛び立つかもわからない緊張感も同時にある。


魚:せやね。字面も涼しい句だな。

 

躓くや涼しき尾つぽなきゆゑに


魚:躓くや の切れもおもしろいし。尾っぽがないから転んだっていう言い訳も面白いし。尾っぽに涼しさをみているのもおもしろい。全部おもしろい。そしてこの脱力してる感じ、勝てないね。


和:そもそも尻尾がある四足歩行動物だったら躓くことなんかないってところから発想してるのかな。前向きにも後ろ向きにも解釈できるところが良い。


魚:そうじゃないかな、前向き?後ろ向き?進行方向のはなし?


和:ポジティブ、ネガティブ。


魚:ネガティブに読むとそれもいいね。


和:

ポジ

進化の先に尻尾をなくして躓いているけれど、こうして言葉を手に入れて俳句書いたりしているわけで、進歩史観寄りな認識を肯定している。

ネガ

めっちゃ人類進歩したけど、それゆえに業が深い‥…。

 

みたいな解釈。


魚:ぐんじくん結構深く読んだね。尻尾ほしかったなみたいな、子供っぽさというかそう言う感じで読んだからネガの寂しさそうな感じもよいね。


和:その感じはとてもわかる。


魚:涼しき尾っぽの季語の置き方はちょっと意外な感じしたな。


和:涼しき、ではない攻め方を想定していたってこと?


魚:そうだね、遊星の季語の置き方はもっと見える季語の印象だったんだよね。〈涼しき尾っぽ〉を季語ととるか無理やり無季と読むかの話はおいといてね。形容して季語化するみたいなアプローチがめずらしいかんじした。


和:みえるってのは視覚的ってことね。たしかに尻尾ないしなここには。


魚:だからもしかしたらトカゲをみて、自分が躓いて出来上がった句なのかもしれないなとおもったな。


和:憶測だけどたしかにそういう体験が作句のもとになっていそうな感はある。個人的には、尻尾がある世界線を「仮想」する考え方そのものが持つ残像性?空洞性?が「涼しい」なあ〜とも思えるので、意外と直接表れている説もある。


魚:なるほどなあ、それもあるっすねえ、いやおもしろいなあ。


和:酒飲んでるの?w


魚:そりゃあ飲んでますよ! 今日大晦日だからね!


和:そりゃそうかw


魚:もう昼間からずっと飲んでるからね。いいね大晦日はね、ずっとのんでても怒られないからね。とにかく遊星良かったですね。


和:櫻𩵋くんのあまり愛をわけてもらいました。ほろじわっとした句集でした。

 

魚:ほろじわっとね。ほんとに年末にしみじみよかったね。また来年も楽しくよんでいけたらなとおもいます!


和:よろしくさー。それではみなさんよいお年を。記事の公開は年明けてからだけども。

 

【おまけ】映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』

映画『サイダーように言葉が湧き上がる』

 

和:こんにちは郡司和斗です。芭蕉さん、 今日はよろしくお願いします。

 

芭蕉松尾芭蕉です。映画はあんまり観ないんだけど、 これはそこそこおもしろかったね。今日はよろしくお願いします。

 

和:はい、それでは、今回は映画『 サイダーのように言葉が湧き上がる』 の感想戦をやっていきたいと思います。 映画のあらすじと公式が公開している冒頭20分の映像は以下の通 りです。

 

https://youtu.be/KKoyD1Sp0-E

 

あらすじ

17回目の夏、地方都市⸺。
コミュニケーションが苦手で、 人から話しかけられないよう、
いつもヘッドホンを 着用している少年・チェリー。
彼は口に出せない気持ちを 趣味の俳句に乗せていた。
矯正中の 大きな前歯を隠すため、
いつもマスクをしている 少女・スマイル。
人気動画主の彼女は、 “カワイイ”を見つけては 動画を配信していた。

俳句以外では思ったことを なかなか口に出せない チェリーと、
見た目のコンプレックスを どうしても 克服できない スマイルが、
ショッピングモールで出会い、 やがてSNSを通じて 少しずつ言葉を交わしていく。

ある日ふたりは、
バイト先で出会った 老人・フジヤマが 失くしてしまった
想い出のレコードを 探しまわる理由にふれる。
ふたりはそれを 自分たちで見つけようと決意。
フジヤマの願いを叶えるため 一緒にレコードを探すうちに、
チェリーとスマイルの距離は 急速に縮まっていく。

だが、ある出来事をきっかけに、 ふたりの想いはすれ違って⸺。

物語のクライマックス、
チェリーのまっすぐで 爆発的なメッセージは 心の奥深くまで届き、
あざやかな閃光となって ひと夏の想い出に記憶される。

アニメ史に残る 最もエモーショナルなラストシーンに、
あなたの感情が湧き上がる!

 

 

和:というわけなんですけれども、 芭蕉さんはあんまり映画を観ないんですか。

 

芭蕉:そう。映画もアニメもあんまり観ないんだけど、 今回まあまあ良かったから、 次からは旅先でも良い作品があったら観ようと思う。

 

和:わざわざ旅先で観るんですね。それはそれでよかったです。 ではまず、全体的な感想から簡単にいきましょうか。

 

芭蕉:そうだね。これは皆感じることだと思うんだけど、 映像を一枚の絵で切り取ったときに印象的になるシーンが多くて、 すごくかっこよかった。 背景美術のビビットな色合いがとてもよくて、 田んぼの中のショッピングモールとかスマイルの家の内装とかグッ ときた。あと、 ちょくちょく画面に入ってくる落書きもそこまで目障りな感じもな く良いアクセントだと思ったね。ただ肝心の俳句がちょっとね…… 。いや、わかっているんだよ。 そもそも作品の拙さも含めてある程度狙った演出だと。 そのために現役高校生に俳句を作らせたんだろうしね(エンドクレ ジットで開成や横浜翠嵐の名前があった)。

 

和:あー、まあ確かにわかります。最後の告白のシーンとか、 ふつうに良いと思うんですが、 どうしてもあそこで反射的に笑ってしまうというか、 こっち側の問題で満足に受け取ることができなかったというのはあ ると思いますね。

 

芭蕉:そう、 まあそれがこっち側の問題なのか作品の強度の問題なのか今は判定 できないけれけど、どうしても気になった。

 

和:ありがとうございます。 僕の全体的な感想も似たような感じですね。 お話より絵の良さに惹かれました。あとはアイテムの配置。 ショッピングモールから地方都市の生活や土地性を考えるのはすこ し二番煎じ感がありますけど、まだまだ有効だと思いました。 主題歌もよかったです。 あの音楽の軽さが鑑賞後の印象をかなり支えていると感じました。 あと杉咲花の声が好き。

 

和:それではもう少し細かくみていきますか。

 

芭蕉:はいはい。

 

ショッピングモールの描写

 

和: 個人的に冒頭20分のショッピングモールの描写がおもしろかった です。 ドンと田んぼの中に大型ショッピングモールが建った景色は異様で 、でも地方出身者としてはとても馴染み深い。 僕の地元の水戸内原のイオンモール等も同じような景観です。 何もない宇宙空間にステーションが浮かんでいるように、 田んぼの中にイオンモールがある。 それがあるおかげで私たちは色々な恩恵を受けています。 基本的にモールの中だけで生活に必要なものがほぼ全て足りている 。この映画でも服屋や雑貨、食品売場以外のテナント(歯医者やカ ルチャースクール、デイサービス)が印象的に描写されています。 また、 配信者として若者代表の象徴のように描かれるスマイルやその姉妹 の遊びがモールの中だけで完結しているように見えるのも特徴的だ と思いました。ショッピングモールは郊外や地方の画一化、 商店街の荒廃を発端とした地域コミュニティの弱体化を促進してい るとしてネガティブに捉えられる対象によくなりますが、 この映画では逆に、 認知症の老人も日本語ネイティブではない少年もオタク気質の青年 も内気な男子高校生もコンプレックスを持った人気配信者も包み込 む空間として、ポジティブにショッピングモールを描いています。 その点『ショッピングモールから考える』(東浩紀 大山顕)の影響をもろ感じます、 というかイシグロキョウヘイ佐藤大はふつうにこれを読んだらし いので、まあ納得です。

 

芭蕉:なるほどね、 ワシは地方がうんぬんとかショッピングモールがうんぬんはよくわ からんけど、 田んぼの中にアレが建っていることの不思議なおもしろさはわかる な。冒頭でいうと、スケートボードを乗り回すシーンはよかった。 俳句の落書きやスケートボードのカメラアングル、 無理やりなアクションは観ているだけで気持ちよかったな。

 

和:わかります。 モールの中をスケートボードで疾走するのを現実で撮るのは難しい し、あのコンテの切り方だとなおさら。 人物がぐにゅんぐにゅん動くのも、 客観的な視点でありながら主観的な描写が強調可能なアニメの良さ が出ていたと思います。

 

芭蕉:モールの中を吟行するところはどう思った?

 

和:『俳句さく咲く』 というテレビ番組でやってそうだなと思ってウケました。

 

芭蕉:確かにやってそうだ。

 

和: でも収録でも何でもないのに短冊に俳句を書いてその場で読み上げ させるのはちょっと異様だろ笑、と思いました。

 

芭蕉:まあドラマの都合上ね。

 

レコードとコンプレックス

 

和;中盤はどうでしたか。

 

芭蕉:レコード探しで二人がデートしてるところは、こういう「 間合い」が一番楽しいんだよな……とか思った。

 

和: ツイッターライブ配信のフォローいいねで一喜一憂したりとかク エスト的な事情につけて連絡取り合ったりとかふつうに自分のこと かと思って泣いちゃいました。

 

芭蕉:今の人はそうなのね。あと、 スマイルにレコード割らせる役をさせるのはさすがにかわいそうな 気が。

 

和: あのシーンは他にいくらでも自然に劇を進める展開あっただろと思 いましたけど、 一回スマイルと主人公の間に溝を作りたくてああなったんでしょう ね。その後の展開は一瞬で察しました笑。

 

芭蕉: まあそんなひねくれた脚本ではないだろうとポスター観た段階で思 う。 作中のアイテムとしてレコードを選んだこと自体は対比が明確でわ かりやすかったね。

 

和:そうですね。レコードと俳句が古い物、 ツイッターライブ配信が新しい物として結構意識的に画面に映さ れていました。

 

芭蕉: でもその構造を表現することにそこまで新規性はないように感じた けどね。

 

和:辛辣だ。

 

芭蕉: コンプレックスに対する描き方もシンプルといえばシンプル。

郡司:それは思いますね。 コミュニケーションが上手くできないとか、 出っ歯が気になるのをその人の個性として他者が認める、 もしくはその人自身が自分の性質を受け入れるというのは、「 アイデンティティ」とか「自己受容」とか「リフレーミング」 の基礎的な理論として当たり前っちゃ当たり前の結論ですよね。

 

芭蕉:でもまあやっぱり、 王道で前向きな感じがこの作品の好感度を上げているのかなと捉え られるよね。

 

和:だから嫌いってパターンもありますけどね。

 

最後の夏祭りのシーン

 

和: 短詩を書いている人がこの映画をおもしろいと思えるかどうかは、 究極的に言えば最後の告白シーンにノれるかノれないかにかかって いると思います。 俳句で青少年の心の叫びをすることにアレルギー反応が出る人は、 そこまででどれだけ映画を楽しんでいたとしても「おわり」 な気がします。

 

芭蕉:うーん……そうなんだよねえ……。

 

和: 幸い僕はああいうむずがゆくなる痛い展開は好物なのでにやけなが ら観ていました。

 

芭蕉:まあワシも距離感がありすぎて冷静に観られた。

 

和:たぶん、 どっぷり俳句や俳句界隈にコミットしている人ほどあのシーンが来 たときに「ああ、 そういう風に俳句という形式を物語のために使うのね」 とイシグロキョウヘイに冷めた目を向ける気がする。

 

芭蕉: 短詩をやっている人には最後のシーンちょっと受けが悪いかもしれ ないけどうちらはもっと客の射程を広く考えているんで、 みたいなのが少し透けるのも冷める原因なのかな。

 

和:そこまで明言していいのかは微妙なところだけど、 言わんとすることはわかります。

 

芭蕉:とか言って観る前から告白で終わる気は薄々していたし、 伝えるなら俳句でやるだろうなとは予想していたから、 そこまで悪い意味の衝撃は少なかった。

 

和:まあ、主人公の設定(口下手で俳句が好き)を見た時に、あ、 そういうことか……って思いますね。

 

芭蕉:そうそう、察する。 ある程度察してから観たのでワシはそこそこ満足。

 

和:よかったです。EDのテーマソングはどうでしたか。

 

芭蕉:これがねー、めっちゃ好き。Never young beachのファンになった。映画の最後が最後なだけに、 軽い感じの主題歌がいいバランスを取っていたと思う。 これのおかげで色々と救われた。「 サイダーのように言葉が湧き上がる」 って句としてみるとゆるゆるだけど、 歌詞としてはその薄さがメロディを伝える上で良く働いていると感 じたね。

 

和:あーありますよね。 アニソンとか特に歌詞に意味がなければないほど音楽そのものを楽 しめる。僕も主題歌とても好きで、 知らないバンドだったので今後も追っかけようと思います。

 

和:今日はありがとうございました。 この辺で終わりにしたいと思います。

 

芭蕉:こちらこそありがとう。 また何かおもしろいものがあったら誘ってください。 新しい物に疎いので、助かるよ。

 

和:はい、またお誘いしますね。それではお疲れ様でしたー。

 

芭蕉:お疲れー。
 

【第四回】平岡直子歌集『みじかい髪も長い髪も炎』

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

郡司和斗 十首選
できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから
下室が家にあるふりされているわたしの声は重いのかしら
そりゃ男はえらいよ三〇〇メートルも高さがあるし赤くひかって
いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて
絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある
セーターはきみにふくらまされながらきみより早く老いてゆくのだ
星座を結ぶ線みたいだよ 弟の名前を呼んで白髪を抜けり
喪服を脱いだ夜ははだかでねむりたいあるいはそれが夢の痣でも
飛車と飛車だけで戦いたいきみと風に吹かれるみじかい滑走路
ねえ夜中のガードレールとトラックのように揺れよういちどだけ明るく

 

本野櫻𩵋選 十首選
わたしたち浮浪者だっけ、歯にメモを書いてつぶれたペン先だっけ
きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと
完璧な猫に会うのが怖いのも牛乳を買いに行けば治るよ
地下室が家にあるふりされているわたしの声は重いのかしら
なにもないように見えてもドアノブを意識しながらゆくべきだろう
裸木よまひるの川面をあたためるひかりが大きな舌にみえない
できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから
ベビー服のうえを模様が通りすぎ赤ちゃんはみな電球のよう
歯みがきのときだけ感じる指揮台があるじゃない、ほら、わたしたちには
似ていない悲しい人体模型から小さなタンバリンを抜きとる


和:今回は平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』を読んでいきたいと思います。

 

𩵋:はじまったな〜〜〜〜〜〜!!!!!

 

和:いつも通り全体的な感想から入っていきますね。まずそもそも、全体像を語りにくい歌集だと思いました。確かに歌集全体を貫くテーマというかテンションはうっすらと感じとれますが、カチッとはまる語彙が見つからないです。気が狂いかけているこの語り手の言葉をなんとか捕まえようとしては掴みそこねる。かと思ったら突然振り返えられたりもする。その繰り返しで気がついたら通読していました。表紙はかわいい感じだけど、内容はスリリングです。脳みそ直接握られているような読後感。とてもおもしろかったです。桜魚さんはどうでしょう。

 

𩵋:そうですね、自分も概ねそんな感じだったかな...。自分としては特に前半は目を引く歌が多かったんですが、50頁あたりから傾向が変わってきて、というのは露骨な艶やかさが少し感じられて目が滑ってしまった印象でした。後半は郡司くんが言うように脳味噌を掴まれている感覚、ありましたね。意図的に読ませようとしないというか、思ってもいないような言葉が次に来るってのが多かった印象。だから自分が引いた歌は少しわかりやすいものに偏ってしまったかなとも思ってます。

 

和:傾向が変わるのはわかる。というか新人賞とった作品の可読性? 飲み込みやすさ? がやたら高くてそこで一回バグるんですよね。

あ、艶やかさのところだけもうちょっと詳しく聞いてもいい?

 

𩵋:そうね、中盤に差し掛かったあたりで一気に「あなた」の存在が見え出したというか、急に退廃的な恋愛とかに扱われやすい煙草とかのモチーフとの取り合わせが増えたっていうか。

 

和:なるほど、モチーフレベルで、ってことか。

 

𩵋:そうそう、なんか突拍子もない取り合わせは多いから逆にそういうのがわざとらしく見えちゃったのかな。

 

和:にゃるほどね文体の話かと勘違いしてたから聞けてよかった。じゃあ1首1首みていきますか。

 

𩵋:いこう!!

 

きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと

 

まあわかるなというか、別に恋愛じゃなくてもいいよね、親子でも。愛と時間みたいなところを感じたかな。結構繋げて読んだんだけど、時間は常に存在して僕たちは当たり前のように追われていて、特に愛があるところにはより時間を感じると思うんです、なんかアインシュタイン相対性理論を子供に説明する時に、「好きな人と一緒にいる時間は短く感じるよね」って話ししたみたいな。内容的にはそんなところでとりました。

 

和:全体的な解釈は桜魚さんと近いですね。上の句の言い回しが不気味でおもしろいです。からだ=お墓みたいな把握の仕方。〈頭上に秒針のおと〉は神経の研ぎ澄まされた感覚を表しているのかなと思いました。そういえばアインシュタインの舌の歌もありましたね。ねじこむやつ。

 

𩵋:あああ、あったね、ねじこむやつ

 

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製

 

𩵋:なんか当たり前のように見ている写真をより深くいじられるっていうかそこを見つけてくるのおもろいなって感じするね、読者というより作り手として面白いなって感じ。

 

和:ねじこんで、は願望……?だとしたらはじめてみるタイプの欲求。

 

𩵋:ねじこんでが欲求というより私の顔を見てキスしてという欲求かと思った。

 

和:いやまあキス的な行為をする歌ではあるんだけども、アインシュタインの舌の複製をねじこんでほしいみたいな歌なのかと。それかキスするときに不意にアインシュタインの舌の複製が脳裏を過ったみたいな。あんまり筋を追わずに記号的に言葉を受け取って評すればいいと思うんだけどね。

 

𩵋:これだとしたら後者で読んだなあ。舌は舌でもアインシュタインの舌とキスって結構遠いからそれがおもろいよね。

 

和:そのほうがエロキモワンダーでおもろい気がする。

 

絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある

 

𩵋:これ取るか迷ったな。

 

和:〈一月の川一月の谷の中〉じゃないけど、手元の絵葉書から広がっていく空間が良い。言い回し的に、絵葉書の菖蒲園は昼間で、一月ではないんだろう。ゲシュタルト心理学の図みたいな歌だね。菖蒲なのも良いと思う。なんかへんに詩的すぎなくて。

 

𩵋:もう完全に一月句と同じ面白がり方って感じするね。菖蒲なのは絶妙だよね、個人的に菖蒲と夜は近く見えたけどこれは俳句的な近さかもだからあれかなそこまで気にすることもないかな。

 

和:確かに夜と菖蒲はちょっと近い感じはある。

 

𩵋:それでとらなかったかな。

 

和:でも短歌だとこの程度の近さは傷というよりまだ演出の範囲内って感じだな。あと歌われているのは実際の一月の夜の菖蒲園ではなくてそれを思う主体の認識とか思念みたいなところにあるから、それが「近い」とかあんまり俺が考えない理由。

 

𩵋:そうねそうね。

 

和:意味的にも方法論てきにも「スライド」に主眼があるからそっちを意識して読む?的なね。次いこ。

 

わたしたち浮浪者だっけ、歯にメモを書いてつぶれたペン先だっけ

 

𩵋:あたいってば『おやすみプンプン』とか『悪人』とか『ゴールデンスランバー』とか『祈りの幕が下りる時』とか逃亡シーンのある作品が大好きじゃん? 浮浪者って別に逃亡者ではないんだけどさ、浮浪者と潰れたペン先ってすごくグッとくる合わせ方で、しかも歯にメモをっていう、意味は無いんだけど、そうそうわかるわかる逃亡中ってそういう気持ち悪さがあるよねって感じに妙に納得できちゃうのよね。使い終わった箸を何本もずっと取っておくとかね、公園のトイレで髪洗うとかね歯にメモを書くってことも絶妙にそういう気持ち悪さがあるんだわ。

 

和:公園で髪洗うは草。

 

𩵋:って感じだった。

 

和:取り合わせの歌よね。あとは〈だっけ〉って書いてるから自己認識の不安定な感じする。気づいたら「それ」になっていた、みたいな感覚なんだろうか。

 

𩵋:いやそう、言うの忘れてたけどそれもあるんよ。いつのまにかそうなっていくみたいなね、というか僕はこの歌の主体がかなり浮浪者目線だと思ってるから、常人が<だっけ>って言うことと実際もう浮浪者になった浮浪者がこう言うことにはまた違ったものがあると思ってて、常人→「浮浪者」or「ペン先」、浮浪者→「確認」or「ペン先」みたいな(は?)。

 

和:短歌って浮浪者とかつぶれたペン先(社会的に排除されがちなもの)をなんとなく良さげなものに描きがちだけど、この歌はそれをふつうに怖がっている感じがして、良いところだと思う。

 

𩵋:うおおおおおおお!!それすげえいいなああ!!いま焚火の良さ実感した。

 

和:これが座の文芸か……。

 

𩵋:座の文芸...ってコト⁈

 

和:ちいかわ語録は沼なんよ。

 

地下室が家にあるふりされているわたしの声は重いのかしら

 

𩵋:わいもとったやつや!ガハハ!

 

和:あ、そうだったね。なんか不思議な歌で、誰かに地下室が家にあると伝えられているんだけど、それが嘘だとわたしは既に見抜いているんだよね。その上であるふりされている理由が声の重さに変換されている。事象が特殊であれば理由も特殊というトリビアルな内容なんだけども、妙な納得感がある。〈重さ〉が良い言葉選びなんだろうか。

 

𩵋: まず僕も勝手に喋るけど、挙げるとキリないくらいあるんだけどさ〈ぱち、ぱちと爪が切られていく音だけで動物園がひとつ燃えたね〉とかね、このシームレス感は本当に気持ちよくて、伝わるかわからないけど初めて『ゼノブレイド』のシームレスバトルシステムをプレイした時と感覚的に似てる。ドラクエって敵オブジェクトと衝突するとデレレレレレってなって戦闘モードに変わるのよ、それが「切れ」ね。でもゼノブレイドはフィールドを歩いてるその敵とそのまま戦闘になるのよ。「敵オブジェクト」と「敵」には明確な差があって、この絶妙に切れない、世界、時間が一直線で継続する感じ。これが平岡さんの歌は本当に面白い。だから言葉選びもあると思うんだけど僕はこの段差がない感じがすごく気に入ってる。

 

𩵋:うどんの話しよう。

 

できたての一人前の煮うどんを鍋から食べるかっこいいから

 

𩵋:もうこれは完全に郡司くんなのよ〈直鍋で麺食ふをとこ初つばめ〉っていう知る人ぞ知る「夜な夜な」っていうグループで生まれた伝説の句があってね。もうそれしか頭になかったね。

 

和:名歌すぎて引くか迷ったんだけど、持ってきちゃったね、二人して。

 

𩵋:夜だらだら作業通話してるときに直鍋で郡司くんが麺を食い出すとめちゃくちゃ腹減るのよね。

 

和:一人暮らしはああなるのよ。

 

𩵋:最近やってないけどあれやってた頃睡眠時間もろくに取らずに深夜にバカ食いしてたせいでめちゃくちゃ太ったよ(笑)。

 

和:キャンプのときも太った話してなかったっけ(笑)。

 

𩵋:この歌は思い出とのマッチングが強すぎて取らざるを得ないってかんじだったな。

 

和:そういう出会い方も「あり」だよね。歌会とか句会だと否定されがちだけど、そういう受容そこ大切だったりする。

 

𩵋:結局そういう方が残るよね、体感的に。

 

和:自分史の中で残ってる作品はまさにそういう出会い方をしたものばかりだね。

 

𩵋:ということはやっぱ直鍋はかっこいいってコトだな。

 

和:たまに突き抜けてくるやばいやつはあるけど。

 

𩵋:それもあっていい!ネクスト!

 

そりゃ男はえらいよ三〇〇メートルも高さがあるし赤くひかって

 

和:非常に評の言葉選びが難しいんだけども、いろんな不条理を無化していく歌だと思った。

 

𩵋:いやこれほんとに意味がわからんかったのよ。難しい言葉選びのなかでいいからちょっと噛み砕いてほしい。

 

和:まず構文として「そりゃ○○はえらいよ、でも○○だってがんばってるんだよ」みたいなのがあって、〈そりゃ男はえらいよ〉って来たらなんとなく主体は女なのかなと思う。で、大概この構文のやりとりって進展がない。飲み会の愚痴みたいな次元。それを逆手に取って、茶化したことを言っている。日本はやっぱ男ってだけで下駄をはく/はかされることが多いけど(この言い方もあんまり好きじゃない)、それは女が権利やそこまではいかない些細なことでも割を食っているから。そこでさっきの構文に、東京タワーのことなんだろうけど〈三〇〇メートルも高さがあるし赤くひかって〉という〈えらいよ〉に対応するには意味不明なことを言うことで、「男のえらさ」を問かけなおしているように読める。東京タワーが出てくるのが象徴的で、こういう読みを可能にしているんだと思う。そういう意味で、不条理を無化する歌だと思った!単純にウルトラマンに変身する歌として取ってもいいと思います!

 

𩵋:すごい理解した。シンウルトラマン楽しみだね〜あれ予告みたけど庵野えらいな〜ってかんじだった。

 

和:カラータイマーとっちゃったからな。ぬるっとしたでこわい。


𩵋:〈高さがある〉の無機物への眼差し感やばいな。

 

和:公開が楽しみですね。てか庵野って石川啄木レベルで後世に残る作家だとずっと思ってたんだけど、シンエヴァ終わってからマジででかい仕事しまくりで本当にそうなるんだろうなと確信した。

 

𩵋:ほんまにな。

 

ベビー服のうえを模様が通りすぎ赤ちゃんはみな電球のよう

 

𩵋:通り過ぎている模様はベッドメリーのことでいいかなと思うんだけど。……そういえば最近亡くなったクリスチャン・ボルタンスキーのモニュメントシリーズを思い出しますねって感じだった。(みんなも検索してみよう!)これね

和:ふむ、たしかに電球だ。

 

𩵋:ボルタンスキーはアイデンティティに生と死を強く持っていて、ていうのは両親がホロコースト世代のユダヤ人なんだよね。

 

和:なるほど、ジェノサイドが背景にあるわけか。てかボルダンスキーの顔日本人っぽいな。

 

𩵋:電球や古着、遺品の入っていそうな缶箱とかをつかって死をいっぱいつくってきた作家なのよね。これ何年か前のボルタンスキー展の写真だけど、この山全部古着なのよ。

 

和:(展示の写真を見て)激良いな。

 

𩵋:歌に戻るけど、赤ちゃんとか命が光=電球って素直にわかりやすくて、でもここでもう一歩、「電球」とされると妙に納得させられてしまって、電源のコードだったりガラスの球体だったりなんとなく人体ぽいのかもしれない。赤ちゃんという未来への希望的な意味で電球ってこともあるだろうけど、妙に人体や生命として電球がしっくりきた。ちょっとダークファンタジーとかサイバーパンクみも感じつつね。

 

和:まあつやつやしてるしまるいし電球っぽい。

 

𩵋:ウンウン。

 

和:なんとなく大量生産されるものに人間が喩えられるとディストピアっぽくなるというか、ナチスとかソ連的なイメージが脳裏を過るから、ボルタンスキーを連想するのはけっこういい線行ってるかもね。

 

ねえ夜中のガードレールとトラックのように揺れよういちどだけ明るく

 

和:発話調なので誰かが誰かに向かってこう言ったってことなんだけど、数ある刹那的な欲望のなかからこのチョイスはエグいなと。比喩そのものの質感はドライなんだけど、〈揺れよういちどだけ明るく〉が既存の短歌的な可愛さを少し背負ってくれているおかげであんまり読者を置いてけぼりにしない構造になってる。

 

𩵋:なるほどね、自分は読みきれない感じがあったんだけどバランスを見ると確かに絶妙だ。ガードレールとトラックて揺れてるか揺れてないかの微かな動きだと思うから。

 

和:トラックと夜の道ですれ違うと、めっちゃ照らされながらぐわんと揺れるじゃない? 感覚としてはそれよね。この歌のいいところは内容は共感ベースではないのにこの歌の中の事象を体験できてしまうことにあると思う。未知7:既知3くらいの割合の出来事として。〈ねえ〉っていうやわらかな入り方もよくて、この歌集の中で突然くるとけっこう驚く。逆にひりひりした言葉に感じる。

 

𩵋:ああ、そう考えると結構揺れてるか。僕は車運転しててすれ違うイメージが強すぎたからそこまで地響きを読めなかったな、でも確かにこの句は歩いてすれ違うトラックとそれから身を守るにはあまりに薄いガードレールの揺れだわ。読めないと思ったのは、「いちどだけ明るく」が若干甘くみえたんだよな。でも可愛さを背負ってるっていう郡司くんの評でだいぶ手に掴んできた感じがするよ。

 

和:いちどだけ明るく」が甘くみえたのはある意味良い判断(?)だと思う。隙をつくってくれているわけよね。

 

なにもないように見えてもドアノブを意識しながらゆくべきだろう

 

𩵋:これなんかラヴクラフト味があるね

和:たしかに幻想怪奇の雰囲気が漂うな。

 

𩵋:これはもう単純に、わざわざ言うところがおもしろポイントで、やっすいホラゲやっててベニヤ板みたいなドアを開けるような感覚に近い。でもわざわざドアノブを意識してゆくべきなんだよね。意識しようじゃないところもなんかいい。

 

和:ドアノブっていわれたら自動的にドアのまぼろしもみえてくるのもいいな。……あ、ちょっと勘違いしてたかも。扉はあるのか。ドアノブがないような扉でもドアノブを意識しながらあける(ゆく)ってことか? あれ????

 

𩵋:え、あえ? なにもない→ドアもないorなにもない→ドアになにもついてないってことか。あ、なんかわかんなくなってきた。ラビリンス入りしそう。まじでラヴクラフトじゃん。

 

和:どっちだと思ってた?

 

𩵋:いやドアはあった。でも言われてみれば暗闇で手探りみたいな感覚もあるんだ...さっきと言ってることがあべこべだけど。もはやドアがあるのか何が見えていて見えていないのかそれすらもわからないけど何故かドアノブを意識しながらすすむべきって言われちゃってる。ちょっとずるいかもしれないけどなんかこういうないことをあるようにしてしまう動作って日常にあるなって感じはする。

 

和:たしかに生きていると、存在していなくても常に意識せざるをえないものがあるよな。つかなんか、ようはメメントモリのドアノブバージョンなのかなと思ったら急にウケてきた(笑)。

 

𩵋:それいいな、それいいそれいい(笑)え、ノーランのメメント

 

和:ふつうに「死を忘れることなかれ」のほう。ノーランのやつ観たいわあ。

 

𩵋:なんかノーランのメメントモリ読みでもかなりおもしろいかもこれ(笑)あの予定調和感というか数合わせ感というかなんというか(笑)。

 

和:メメント観るか……。ドアノブを忘れることなかれ。

 

𩵋:(笑)

 

いつか死ね いつかほんとに死ぬことのあいだにひしめく襞をひろげて

 

和:ツンデレっぽい歌なのかなあと。「生きててほしい」的なことを真顔で言う歌は山ほどあるけど、意外とこういうツンデレは見ない気がする。いつか死ねってことはそれまでは生きろってわけだよね。

 

𩵋:いつか「死ね」か。なるほどなあ。

 

和:そのうえで、いつかほんとに死ぬことを「襞」のイメージで捉えるあたりに生々しさがある。

 

𩵋:たしかに、襞って蛇腹になってる人生の年表を意味させつつ、人体の一部も想起させるね。

 

和:そうね、人生のメタファ~っぽい(けっこう分かりやすく)。その襞をひろげるってなんか人生をのっぺらと一望する感じがして、ちょっと残酷みがあるけど読んでて気持ちいいポイントよね。「死ね」って超絶シンプルに強い言葉だけど、「いつかほんとに死ぬことの」で少しやわらかくなるのも全体の印象を良くしてて、読者層のレンジをうまくひろげていると思う。

 

𩵋:たしかに、見落としてた歌だったんだけど、いつか「死ぬ」で誤読したんだよね(笑)

 

和:いつかは死ぬなそりゃ。

 

𩵋:そうそう、いつか「死ね」で読むとすごく面白いと思うから勿体無いことしたなあまあ気づけてよかった。

 

和:こういう気づきも二人で読み合わせる良さだね。

 

歯みがきのときだけ感じる指揮台があるじゃない、ほら、わたしたちには


突然URLを叫び出すヤバいやつ:https://youtu.be/75Ww4CcRyYI !!
RIPSLYMとくるりのユニットで『ラヴぃ』っていう曲があって、「一緒に歯磨こうよ」ってリリックがあるんだけど、ここがめちゃくちゃ気持ちよくて好きで、そして僕は彼女や友達と旅行したときに一緒に歯磨きをすることがやたら好きなんですが、もしかしたら特殊性癖かもしらん。

 

和:それはばちぼこわかる。

 

𩵋:歯磨きのリズムがあっていく感じが指揮台だって言ってくれてうれしいなって感じしたんだよね。

 

和:朝イチに鏡で自分をみるときって、不思議な高揚感があると思うんだけど、それを指揮台って言葉をよく見つけてきてはめたなーと。
わたしたち、なのもおもしろいな。指揮台に立つのってふつう一人だと思うから、二人以上だとそういう発想になかなかならなそう。

 

𩵋:あああ確かにな。

 

和:この歯磨きが朝なのか夜なのかでも雰囲気がちょっと変わっておもしろいな まあどっちかっていうより、円環って感じだけど。

 

𩵋:あ、それいい。朝だと清涼感があるぶん歯磨き粉感強いし指揮のスパイシーさも変わってきそうだから。

 

和:スパイシーってなかなか独特な評やな。

 

𩵋:最近開拓したのよ。みんなも真似して欲しい。ちょっとカッコイイとかクールよりちょっと弱いそういう方向性をスパイシーっていうの。

 

和:ちょっと次の句会歌会で使うわ。

 

𩵋:お、こいつなんかイイ評するなってなるよ。

 

和:この句、スパイシーだね。

 

𩵋:wwwww そう言うと途端にうざいな。

 

和:メンソール効いてるね。

 

𩵋:どんな句だよ。

 

セーターはきみにふくらまされながらきみより早く老いてゆくのだ

 

和:経年劣化の歌だけど、「のだ」が核だと思うんだよな。〈老いてゆく〉の擬人化はゆるくみえるっちゃみえるけど、なんか「のだ」が持つ「ちょっと小ボケつつも真面目な感じ」が詠嘆に近い読み味を出しているというか、文語じゃないと出すのが難しそうな余韻をやってるのがおもしろかった。

 

𩵋:おお、いいね

 

和:「のだ」って変だよな。

 

𩵋:今回ずっとよんでて思ったけど、そういうの多かった。

 

和:へけ

 

𩵋:モチーフや言い回しに面白みがあるというか、語感とか語尾の遊び、余白?余裕? そういう良さが目立ってた。その点この歌も「のだ」がいいよね、時代感だけそこはかとなくハルヒだね......。

 

和:「のだ」じゃなくて「んだ」って言うよな、自然にしてると。でも「んだ」だとなめらかすぎるというか、「のだ」の違和感、フックが「けり」的な印象に繋がっているんやろな。

 

𩵋:おおおおおお「けり」ね。「けり」かもしれない。

 

和:や、かな、けりでいったら、けり、やろなあ。

 

𩵋:〈老いてゆく〉ことを実際に経験した過去がありそれを誰かに解説してる口調ぽくて、ということは意味的にも「けり」ぽいやん、ウケるな。

和:発見しちゃったな。

 

𩵋:みつけてしまったのだ

 

和:みつけてしまったことだなあ……。ではこれでおしまいですかね。

 

𩵋:おーつかれい!毎回言ってるけど今回かなり自由に喋ってよかった!!

 

和:またこんど~!