初出:「焚火」創刊号
在庫切れかつそれなりの日々が過ぎたので、たぶんずっと無料公開します。
【参加者】
本野(塚本)櫻𩵋・郡司和斗・安里琉太
【気になった詩】
みんな:「田園」
本野櫻𩵋:「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」
郡司和斗:「雪」
安里琉太:「絵の中の美濃吉」
【詩の引用】※許可あり
田園
筆談、そして鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日、手を伸ばしてみたら「あ、」と不意に声が漏れた。電話帳があいうえお順だから、並ぶひとがいて、波の細やかな起伏がずっと遠いところまで続いている。整列。抜けるような胸の白さ、そこを透過して、夜、初夏の水田に一陣の風が吹きとおる。いつだったか。fとビル街の真中にあるカフェのテラス席で食事をしたとき、われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。fは、「いまのなに」と言っただけでさほど興味もなさそうにただ夏雲の行方を眺めていて、わたしはそんなときのfの横顔とか、グラスの水滴とかが好きで、そのあとの急な夕立を今でも鮮明に覚えている。
遠くの方で鈴が鳴ることと、太陽が義手のように指し示していること。fは透明な傘を持って泥濘んだ地面を繰り返しびゅっ、びゅっと突き刺す。その遊びの痕跡がわたしたちをより細く険しい道へと至らせる。こんなにも、拙い呼吸で。自転車に乗った男子高校生たちが、手を繋いでいる。胸のなかに手を入れたらとても夭い鋏が、小ぶりなテーブルに置かれていて、まるで何かを落として、割ってしまったときの気分だ。「おはようございます。」そして大声でお礼を言われて、顔を上げたら、が対岸の選挙カーに向かって手を振っていた。一面が窓ガラスだった、休日の朝、その鮮度。犬といっしょに畦道を駆けてゆく光景が、胸に、一途に射し込んで。たくさんの帆が上がっている。田園。
わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことがなかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。水浴の午後、ふと金田一少年に手紙を書きたくなる。織りなす海の絵を添えて、そう、そこにパンタグラフを描き入れる、峡谷へと向かう、とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げてゆく。あいして、います。気がつけば浴槽が水でいっぱいになっていて、ひとごろしの睫毛が過ぎ去ってゆく田園へと、しずかに向けられる。金魚鉢には金魚が数匹、泳いでいて、そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、
ハイウォーターズに住む双子たち
ハイ・ウォーターズに住む双子たちのまわりの酸素は薄 く、彼らはなるべく呼吸を浅くして、薄眼で表層を泳ぐ ように暮らしていた。彼らはハイ・ウォーターズに昔か ら伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方 が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。
彼らは一組の解き難い知恵の輪のように暮らした。遠くで雷が鳴った日、彼らは山の稜線が音に先立って何度も発光するのを見て、それをうつくしいお墓だと思った。 そして、鰈という名の魚を図鑑で見たときにとても自然に微笑んだ。その夜、彼らは手話でぎこちなく、でも確かに互いの心を愛撫した。
喋らない代わりに彼らは portrait を描き合った。描き合う彼らの姿はもっとも尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられていなかったからか、なんの感情の前触れもなく、わたしはたとえば涼しい風が 吹き抜けたときに涙を流していることがある。言葉を棄てた彼らは泉のように自閉していたにも関わらず。
ハイ・ウォーターズでは、太陽がラヴ・ソングのように 降り注ぐ日が一日だけある。その日だけは、鉱物が子宮 のように暖められ、季節が、時の一点に向かって敬虔に 挙手をする。水面近くを飛ぶ鳥たちの、限られた睡眠時 間のなかで、彼らは半跡を組み自らの肌を日に焼いた。
「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている。たとえば夏至前の、夕餉を準備するとき、透明な蟬が一匹、糸のように鳴く。その鳴き声に背中では気付いていながらも、静かに食卓を調えてゆく。この食卓さえもがいつ透明になってもいいというように。そして空のコップに、 氷を入れる。そういう風にしてわたしたちは、いつの間にか半袖の服を着ているのだった。
雪
skin
風邪を引いても、
背中を撫でてやれば大丈夫なはずだ
それでもあなたの両目は
笊として雪を透視していて
生まれてから一度も
食事をしたことがない
知恵の輪をほどいて
雪は一斤ずつ降り積もってゆく
描いた絵が
少しずつわたしに似てゆくことに
ずっと前から気づいていた
あなたの両の目は
物の奥を見ながら
ときには
卓の上を正視する
「この百合根は
性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」
川べりの真昼に見とれて
忘れ物をしてしまった
両の手を濯ぐときのつめたさよ
冬の光を浴びた
鍵
小鳥たちの後頭
布きれが乾きやすくて
あなたは雪を隠すのだ
交差点で傘を差したまま
雪を見上げる人々がいる
わたしには彼らが
息を止めているようにも見える
息を吹きかければ
硝子窓が曇る
生きることは衣服のように白い
絵の中の美濃吉
たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院の鏡のように並んで走り抜ける。売れ残った林檎。瑞々しい陶片を拾うために美濃吉は労働をして過ごした。玻璃質の冷涼な大気の中で、美濃吉の腎臓はとく、とく、と健やかに水を受け入れていた。
盥に映る空が、舟のように揺れていた。美濃吉はむかし、川沿いを走る馬を見たことがある。正確に言えば、 その馬の精神だけを見たことがある。馬の肩からは白く 光る骨が突き出ていたからか、貝を食べる人々はそれを嫌った。すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。
井戸が眩暈をした朝があった。美濃吉は昔から人間より も事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪摘んで、その闇に投げ落とした。闇からは美濃吉を呼ぶ声が絶えなかった。美濃吉はほほえんで、遠くの山々に向かって一礼をした。彼は生まれつき音が聴こえなかったのである。
完璧な月が出たある晩、美濃吉は月明かりの中でまたあ の馬を見た。馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には雪が結晶する。その景は明らかに厳しい冬の到来を伝えていたので、夜風に磨いた草は妹のように泣いた。
美濃吉が行く地獄とは、たとえば理容院の二重らせんの ことだ。それはたくさんの折鶴の首でできた地獄である。そこでは、無人駅の枕木がとろとろと睡りについていて、わたしは過ぎてゆく秋の車窓のひとつひとつに密告をする。口をつく言葉の、その弱々しい悪意に促されて。
途絶えがちな手記のように、美濃吉はよく夢を見た。入水するとき片方の手は凧を持ちながら、もう片方は花瓶 に活けられた花の方へと伸ばす。整然と並べられた無数 の椅子の脚。陽光。息が、できない。彼が思わず口を開 け「あ、」と漏らしたときの未必の故意の、一幅の中に吹き抜ける風の。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
「田園」
郡司:「焚火」同人の郡司和斗です。今日は安里さんと一緒に『針葉樹林』読むことができるということで、とても嬉しく思っています。よろしくお願いします。
本野:蒼海俳句会に入っています。本野櫻𩵋です。僕は同人をやるのが初めてなので、「焚火」をすごく楽しみにしています。今回の企画では、ふつうの読書会とはまた違って、脱線しつついろんな話をできればと良いなと思っています。スペシャルなゲストの安里さん、郡司くん、よろしくお願いします!
安里:あらためての自己紹介をすると変に照れますね(笑)。今回はお誘いいただきありがとうございます。「焚火」創刊号の読書会に入れて光栄です。「銀化」、「群青」、「滸」に所属しています。安里琉太と申します。よろしくお願いします。
郡司:まずは全体的な感想からいきますか。前回の打ち合わせ(飲み会)のときにも少し話しましたが、『針葉樹林』は現代詩を読んだことない人に逆に薦めやすい一冊なのではないかなと思っています。日常的な言語操作からわかりやすく離れていて、詩的なレトリックをがんがん回している。あと、一篇ごとに詩がとても自立している印象があります。「田園」のf、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」の双子たち、「絵の中の美濃吉」の美濃吉など、〈私〉以外の物事について説話的に語る作品が多くて、阿部公房の『砂の女』ではないですが、世界観の構築が上手い作品が多いなと思いました。本野さんはどのような感じですか。
本野:そうですね。他の人も言っていることだけど、比喩がおもしろい詩集ですよね。詩集の栞で松下育男さんが「喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくるという均等な世界になっている。」と書いているけれど、次の世界に主体の視点が気づいたら移ってしまうのはすごくアクロバティックだと思う。前後の言葉のバランスもすごくちょうどいい距離感にあって、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」や「絵の中の美濃吉」とかは特にそのバランスが良い。っていうのは一篇の中でころころ話は変わるんだけど、空気感が同じで、というか構成力って言えばいいのかな。えっと、それがなんというか……ごめん見切り発車で喋っていて上手く言葉が。
郡司:いや、わかるわかる。比喩の連続で語りの内容はスライドしていくんだけど、語彙や文体レベルでは統一感があるから。
本野:そうそう、それだね。統一感。僕が選んだ「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」はじめ、言葉の統率力がすごくある。ある程度長い物を書いているとふつうはブレて来るじゃん。それがなくて、言葉のカードプールが決まっている感じというか、作者の中でこうして書く、と明確にある感じがする。一篇一篇の詩は日本的だったり西洋的だったり日常的だったり幻想的だったり離れて見えるんだけど、一冊通して読んで感じる空気感は同じで、与えられる印象が統一されている。だから現代詩を読んだことがない人にもとっつきやすそうだと感じるのかもしれない。
郡司:では次に安里さん、ざっくりで良いので全体の感想を伺っても良いですか。
安里:はい、本当にざっくりなんですけれど、初めて読んだ時も良いなと思ったし、今回あらためて読み返してみてもあたらしく良いなあと思わされる点がありました。お二人も仰っていたようにある意味で読みやすくて、もちろん比喩は難解…難解と言うのはこの一冊の営為に対してはあ適切な評という感じがしませんね。「読解」という姿勢で読むと苦しむ人もいるかもしれませんが、ただ構成としては読みやすいい集だなあという印象を持ちます。始まりに「田園」に置いたことで、「ここから行くんだ」という意思の表明みたいなものが思われて、この詩集のベクトルをきちんと定めた感じがある。頻出するモチーフがあって、こうしたモチーフに対するイメージが読み進める中で響きあってくる。「田園」から始まって詩集の真ん中あたりまで行くと「梨を四つに」があって、このあたりは読みやすい。中のつなぎ方というとちょっと変だけれど、読みやすい流れができていると思います。詩集の最後の方、「浚渫」や「クウォーターサイレンハウスで三日間を過ごした」等は、前半のレトリックの重量感がある詩よりもずっと読みやすい。正攻法とまでは言わないけど、読者も入っていきやすいですよね。全体を通して変遷しながらなんだけど、楔を打つところではきちんと打ってくる印象です。それで、これは今更ながらのことかもしれませんが、やはり言葉を書いているという意識で詩集が編まれていると思いました。「田園」は特にそれを感じます。全体的に「馬」とか「鍵」とか、ともすればモダンなモチーフがよく使われるんですが、それらの言葉が身をよじりながら言葉の理屈をすり抜けていくところがあって、そこに古びていない輝きが宿る感じがあって新しく思える。読み味が良い。
郡司:いやー、初手から良い評ですね。では「田園」の話からしていきますか。
本野:みんなについていけるように沢山メモってきたよ(笑)。
安里:一回朗読しますか。
郡司・本野:あ! いいですね、僕、読んでみます。
(本野が「田園」を朗読する)
郡司:え……いいね、声に出すの。詩の界隈で朗読が盛んな理由がわかるわ。
本野:うん、思った(笑)。気持ちいいのよ、口が。
郡司:句読点の効いている/効いていないとか読み上げて初めてわかる部分も多いね。
郡司:安里さんの言う通り、「田園」はこの詩集の選手代表の感がありますね。冒頭が「筆談。そして鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日」と、いきなりオモシロ比喩が出てくるわけですが、これが一種の宣言ですよね。俺の武器はこれなんだぞ、みたいな。ドヤ顔ぎみに武器を使ってきて、読者にまずは方向性を示す。「田園」の中で「f」が登場しますが、こうした抽象化され記号化された他者は他の詩の中でもいくらか登場します。そうした技を「田園」で先に見せておくのも上手いですよね。さっそくもう具体的なセンテンスの話をしますか。僕が「田園」を読んで中心になるなと思ったのは、三連目「わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことがなかった。鵺に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。微笑のような日々を、すやすやと送ること。」ですね。タイトルの「田園」がここで出てきて、この詩一篇、もしくは詩集全体に対して書いているのかなと。「どれも等しく苦しい」んだけど、「微笑のような日々すやすやと送」っている。この「微笑のような日々」が、要はこれから詩集で展開される世界な感じがする。本野さんは、どうですか。
本野:テーブルの下に犬がくる場面がまずおもしろかったかな。
郡司:「われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。」のところね。
本野:そう、あんま深く触れないんだよね。「fは「いまのなに」と言っただけでさほど興味もなさそうにただ夏雲の行方を眺めていて、」って繋がっていて、「今のなに」とは言及されるんだけど、それこそ走り抜ける犬くらいさらっと処理される。俳句やっているとどうしても季語を見ちゃうんだけど、この詩集の中だと季節の言葉が何かの起点に使われていることが多い気がしますね。例えば「夏雲の行方を眺めていて、」とある、夏雲という具体性を帯びたでかい景色に読者の意識がもっていかれちゃって、犬が来たことを忘れてしまうんだよね。変な状況なんだけど、それ以上に夏雲ってでかくてノスタルジックだから犬の匂いを残さないで次の文章をぐいぐい読まされてしまう。季語の想像しやすさ、身近さをを活かしたこの使い方はおもしろいなと思った。もし自分が文章の中で季節の言葉を使おうと思ったら、やっぱりそこを主軸にしてしまうんだけど、「田園」では臭み消しみたいな役割になっていて、そこが自分の感覚とは違っていて好きだなと。
本野:前後してしまうんだけど、詩の全体で気になったこともあって、「電話帳があいうえお順だから、並ぶひとがいて、波の細やかな起伏がずっと遠いところまで続いている。整列。」を最たる部位として、「規則性」という指摘ができそう。そもそも田園自体が規則性のあるものじゃん、区画があって碁盤の目になっている。そういう並んでいるものを見ていきたい詩なのかなと思った。金田一少年の「金田一」は線対象だし「田」も字面単位で寄せてきてるよね。
郡司:初手からギアあげてきたね(笑)。
本野:喋り出したら止まらなくなってしまった。
安里:ハードル上がってしまって困ったな(笑)。そうですね。一行目から正しく「書くことで伝えること」である「筆談」という言葉から始まって、そのあと「鏡の中が偶然水曜日だったような顔をしながらある日、」と続くわけです。フロイトなんかを思うと、鏡と書くこととは文学的に示唆深いところがあります。「鏡の中が偶然水曜日だった」、「水曜日」の「水」の字から連想がいって透過性を思わせられた。そのあと、「手を伸ばしてみたら『、あ』と不意に声が漏れた。」というふうに声が出て来る。声よりも書くことが先にでてきて、しかもそれは「あ、」ではなくて「、あ」だという。そういう言葉の位置づけから入るんですね。そのあと本野さんが仰ったような、ある種の規則性が見えて来る。この辺が最初に郡司さんが仰っていたレトリックっぽいところだと思っていて、「並ぶひとがいて、」のところは、実際の景として人が並んでいるのか、電話帳の人が並んでいるのか。ねじれていて、「波の細やかな起伏」が出てくるのかなと思いましたね。詩のスタンスとして思われたことで、例えば、入沢康夫は『詩の構造についての覚え書』の中で「詩は表現ではない」ということを述べていますが、そういう感じがする。あるいは、池上嘉彦は『言葉の詩学』の初めの方で、「言語は伝達すべき思想や事柄を表現し伝達する手段である」というのは一般的な言語の定義として間違っていないけれど、でも、これでは言語はあくまで手段として低位にすえられてしまう。むしろ、現代における言語の新しい認識は、言葉が伝達の手段以上の何かであるということに端を発していると述べています。そういう意識が「田園」にも感じました。それでまた、この詩はタイトルを冒頭に持ってきたくないわけですよね。最初に田園と書いてしまうと意味が付いてしまう。それ以外の言葉の論理的な意味の展開も同様に嫌がっている。目次を巻末に置いているのもその延長と思いました。意味性から逃れていく、ほどいていくみたいな意識が出ているのかなと思いました。あと、「f」の存在は気になりましたね。「fとビル街の真中にあるカフェのテラス席で食事をしたとき、われわれの」とか、人称では「われわれ」が出てくるんだけど、それ以外はf、f、fと続く。三連目では「わたしたち」と人称が変化する。「f」とは少し違うけど、「K」だと日本の近代文学にもよくよく出てくるけど、「knife」のkが音消失するように、物語の途中でKも消える場合が多い。「f」は途中から「わたしたち」の形に変わっていくのが興味深い。「わたしたち」というかたちに消えて行ってしまう。仮にこれが「T」だったらどうでしょうね。「田中」のイニシャルかなと推測してしまって少し間が抜けてしまいますよね(笑)。「f」はほどよいイニシャルの選択だと思いました。それと、郡司さんが先ほど「軽やか田園というものを~」に触れていましたけど、「田園」は「馬」と同じか近い抽斗に入っている言葉だと思いました。それから、読み進んでいくと「ささやかなな斉唱の」と、ここで言い止すんだすよね。言葉について意識深く書くこの詩は、極まってくると言い止すんです。書ききらないというか、書ききれないというか、何か臨界を超えたときに言いさす方向に向かう。「そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、」のあとも読点で止めている。こっちの場合は、さらに続く感じを期待させます。続きそうなところや言いさしで終わるところ、興味深い思って読みました。
郡司:ありがとうございます。言いさす表現は他の詩にもいくつかありますよね。「絵の中の美濃吉」もラストが「吹き抜ける風の。」で終わっている。現代短歌でも言いさしで終わる技はありますけど、この詩集でも何か限界や臨界を超えたときに、語りに言葉が追い付かなくなる感じを演出しているのかなと思いました。あと「T」だと田中を思うは笑いました。
本野:「f」だと絶妙にイニシャルっぽくないよな(笑)。
郡司:そう、詩の中だけに住んでいる謎の住人みたいなイメージ。
本野:「f」の形も猫背の人のシルエットみたいでおもしろいよね。
郡司:おお。
本野:「f」にギャル感というか、適当さゆるさを感じるんだけど、わかるかな。こういう友達、僕はいるなーと思って。
郡司:わかるわかる。「われわれのテーブルの下を濡れた犬がさっと走り抜けたことがあった。」の少しだけ非日常な出来事に対して、「f」は「いまのなに」と反応するだけで、興味をなくしてしまうんだよね。そこの抜けた感じとかは本野さんの指摘する通りかな。
本野:選挙カーに手を振っているところにもそういうことを感じる。日常の中で選挙カーに興味を持つことってそこまでないような気がするんだけど、少しふざけて選挙カーに手を振ってちょっかいを出すみたいなゆるさが良い。バスに子どもが手を振ってしまうみたいな。絶妙な適当さがある。「f」と語り手は最後に「わたしたち」と人称上まとめられるんだけど、「f」がイマジナリーフレンドだった感じもしていて、実は自分のことを話していたのかなとかも思ったりした。
郡司:そもそもなことを言うと創作物だからすべて自分の言葉なんだけど、そうね、イマフレ感は思います。てか選挙カーには手を振りがちな気がするんだけど(笑)、どうなんだろう。まあ僕が適当ゆるゆる人間なだけか。
本野・安里:笑。
本野:話が脱線するんだけど、「とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。あいして、います。気がつけば浴槽が水でいっぱいになっていて」のところ、既視感があって、椎名林檎の「長く短い祭」のミュージック・ビデオに似ているんですよね。女の人が彼氏か誰かをシャワーヘッドで殴り殺して、死体をたぷたぷの浴槽を沈めて、外に逃げるんだけどディスコに行ったりして狂ったように踊るのよ。最後はパトカーのサイレンの光に顔が照らされて終わるっていう斬新なやつなんだけど。愛ゆえに殺すみたいな内容なんだけど、「犯人が逃げてゆく」とか「あいして、います」とか「浴槽が水でいっぱい」とかモチーフがつながっててびっくりだったな。たまたまかもしれないけど。
郡司:まあ間違いなくたまたまでしょう。椎名林檎と現代の作家との関連を論じた批評とかって何かありましたっけ。
本野:「文學界」で椎名林檎論が連載されていたから、それなりにあるね。
郡司:石松さんにインタビューしたわけじゃないからわからないけど、ワンチャン影響されている説ありますね。
本野:そもそも「鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。」のイメージの関連はありがちといえばありがちなんだけどね。
郡司:そうね、椎名林檎まで出さなくても、イメージはそのものは既存のものから借りている感じ。
本野:急に演歌みたいだよね、「あいして、います」って。
郡司:また脱線するんですが、噂レベルで俳句では電車の旅とか車窓にまつわる句に名句なしと聞いたことがあるのですが、それって本当ですか。
安里:僕は教員なので仕事がら例年三百人くらいに俳句を書いてもらうのですが、車窓の富士とかはみんな読みがちではありますよね。やはり観光っぽくなってしまう。この連においては、「とても素敵な鈍行列車。車窓。犯人が逃げていく。」の言葉の運びから、重たい「田園」の印象があります。「金田一少年」とかも出てくるから推理小説のような世界観。俳句だとやや難しいかもしれないです。
本野:初富士をしばらく旅の肘の上/鷹羽狩行、とか好きよ。
郡司:ふむ。
本野:この連は「金田一少年」の語のつながりを摘んでいる感じよね。
郡司:そうだね、「金田一少年に手紙を書きたくなる。」から始まって手紙に添える絵の中の話として鈍行列車、車窓、犯人~って言葉がスライドしていくわけだから、金田一少年が分岐ポイントになっている。この運び方、冒頭の比喩に近い技だなと思います。喩えた物がメインになるように、金田一少年に送る手紙に同封する絵についての内容が本体にすり替わっている。
本野:詩の最後は「金魚鉢には金魚が数匹、泳いでいて、そして堆積する夏へ、帽子のように、わたしたち、」となるけど、暗いまま終わるのかと思いきや、明るいイメージに車線変更していて、まあなあ、若干乗れない感じもあるけど、「金魚」で明るさを見せて臭み消しているのはうまいと思う。
郡司:たしかにポエジーなワードもりもりで終わるから警戒するかもね。
本野:ここのラスト、これまで自分にとっての田園の話をしていたところから、金田一少年を経由して第三者視点的な田園について語り始めて少し戸惑ったんだけど、どうでしたか。
安里:そうですね。二連目までは夏の世界観で進んできて、三連目から心象の世界にシフトした印象があります。だから金田一少年とかも突然出て来たのかなと。三連目は走りまくっている感じですよね。結構なんでもありみたいな。かなり極まってきていて、言い止しも起こるし、「わたしたち、」のような途切れも起きる。僕は普段、俳句を書いていて、詩型が短いから書き始めから終わりが見えるのですが、現代詩の難しさは、終わりを自分で決めるところにあるのではないか、なんて思ったりします。そういうところ、なんていうか、「いかついな」と思います(笑)。
郡司:本野:笑。
安里:もし慣れない僕なんかが詩を書こうとすると、所々で事件を起こさないといけないというプレッシャーに駆られると思うんです。だけど、この詩は最後、割とポップな感じで終わる。この金魚鉢のあたりがないと、詩として筆が置けない感じがするのかもしれません。そこが難しいな、と。この「堆積する夏」は一連目、二連目に返すわけではないけど、詩が循環するように設置してあるという印象を持ちました。そしてタイトルの「田園」が最後に出て詩が閉じるわけだけど、この置き方がこんなにも効くとは思わなかった。別にそこまで詩をたくさん読んでいるわけではないので、きちんとはあまり言えないですけれど。郡司さん的には最後をどう思いますか。
郡司:ご指摘されていた通り最後に詩が円環的になっているというのは、言われてみてそうだなと思いました。最後にタイトルで「田園」と出てくると、田園の空間的な広がりが想起されつつ、時間的な円環も同時にあって、時空間の大きさを強く感じます。
安里:基本的には上手い書き手だなとやはり思います。
郡司:良い感じにまとまってきたと思うんですが、「田園」について言い足りていないことはありますか。たくさんメモしてきた本野くんは大丈夫?
本野:うん、規則性のところを話せたから良いかな。
郡司:では「田園」はここで閉めて、次行きますか。
「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」
郡司:まずはこれを選んだ本野さんからコメントもらいますか。
本野:はいはい、散文詩なんだけど、限りなく散文の幻想小説に近い感じ。夏目漱石『夢十夜』くらいの感覚がするかな。でもね、この詩は資料、ルポを読んでいるような淡白な味もする。そこが怖いといえば、怖いけど、楽しそうといえば楽しそう。僕は土着信仰系のルポを読むのが好きなんだけど、まさにそれを読んでいる感じがします。こういうのってどうしても最初に状況を整理したくなるよね。
まず、タイトルの「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」が変ですよね。わざわざ双子を双子たちと複数形にしている理由はなんだろう。ハイ・ウォーターズには必ず双子で生まれてくる種とそうでない種がいるのか。語り手はどちらに属しているのか。もしくは、語り手は語り手独自の種なのか。そういう想定をしながら読める。ただ、語り手は双子たちのことを若干下に見ている気もする。例えば、一連目、「彼らはハイ・ウォーターズに昔から伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。」とか「呼吸を浅くして、薄眼で表層を泳ぐように暮らしていた。」とかの言い回し。まさに「生きもの図鑑」ぽくて、自分たちとは違う種族を超客観的に説明するときのような文体だと思う。でも、最後の五連目は急に語り手が内部に入り込んで主語が「わたしたち」になるんだよ、双子たちの観察から自分たちの生活に視点が移っている。・・・てか、ハイ・ウォーターズってどこなんだろう。SF的なんだけど、イメージだとワンピースの空島みたいな感じかな?
郡司:笑。
本野:五連目の「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている。」についてちょっと思ったんだけど、もしかしたら語り手自身も双子の片割れで、「双子たち」は喋らないけど「語り部含む双子」は隠れて喋っているということを言っているのかな。すごく突飛な考えだけど、語り手が実は二人の可能性もあるよね。それ意識してるとしたらすごい発明だけどね。他にも細かく気になるところはあるんだけど、ひとまずこんな感じで。お二人の感想を聞いても良いですか。
郡司:ルポっぽさはわかります。取材してきたみたいな文体ですよね。初読の感想ですが、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」のタイトルだけ見て『ジョジョ』みたいだなと思いました。内容的にも「昔から伝わる迷信を心から信じていたようで、どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬからと喋ることをやめた。」の突然の設定とか、物語の中盤で挿入される小ネタみたいですよね。
本野:ダークファンタジー感はあるかも。
郡司:それで、ぱっと見は『ジョジョ』っぽいなと思ったんだけど、「一組の解き難い知恵の輪のように暮らした。」とか「喋らない代わりに彼らはportraitを描き合った。」とか「太陽がラヴ・ソングのように降り注ぐ」とかのハイ・ウォーターズにおける双子たちの微笑ましいような、切ないような、突飛なような暮らしぶりをよくよく読むと、今後は宮崎夏次系の短編のような雰囲気も感じた。石松さんと夏次系は比較的近い世代だと思うんだけど、似たような表象を共有していておもしろかったです。あと、僕はてっきり五連目の「わたしたち」は私と双子たちのことを指しているのかと思っていたんだけど、本野さんの話を聞いて、語り手も双子説に気づけたのはよかったです。もし私も双子たち側だったら、双子について一方的に語っていた私=主体が客体に反転するようでおもしろい。これはまた脱線なんですけど、この前、B級ホラー映画の『牛首村』を観てきました。作中で双子しか生まれてこない村が描かれるんだけど、その村では双子は忌子扱いなので片方しか生きることが許されていないんです。そのイメージがこの詩とつながっているなと思いました。「どちらか一方が名前を呼ぶとその呼ばれた方が死ぬ」とかもろ近い発想ですよね。こういうのって創作物あるあるやなと思いました。
本野:ひと昔前のボカロとかそういうのばかりだよな。
郡司:笑。
本野:少しダークなボカロ曲とかラノベとかそういうモチーフばかりやったで(笑)。
郡司:まあそんな感じっす。安里さんどうぞ!
安里:そうですね。お二人が仰っていたように、読んでいて、近代以前というか、村社会における信仰や迷信の中の双子、は怪(しるまし)として位置づけられるような双子にも思いが至りました。それが非常に耽美的に描かれている。あとで触れる「絵の中の美濃吉」もそういう感じで、スティグマというか、神から寵愛されているがゆえに障碍という徴を受けている、という想像力。これは世界的にも、日本の古典文学においても見られる表象ですね。目が見えないから神の子になるとか、イタコも近いですね。宗教芸能、遊芸者なども思い浮かぶ。そういうスティグマとしての障碍が耽美的に語られている、聖性を得るように書かれているのが、ある意味では古典的なモチーフという感じがした。僕がこの詩を読んでいて思ったのは、ヴァーチャルとまではいかないんだけど、汗腺がついてないというのかな。汗をかく器官がついていないような手ざわりの人たちが、詩に登場してくるよな、と。耽美的な美しさとその危険性が毒にも薬にもなるようなかたちで、古典的なモチーフや位置づけで捉えられているなと感じました。僕はポリティカル・コレクトネスに対して、それで根本的な何かに対処しえたと思えないから全然賛成ではないんだけれど、それでまた、毒にも薬にもならないものを書き続けることに何の意味があるのだろうとも思うんだけど、そういう意味でこの詩集は猛毒も含んでいるとも思う。「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」にはなんでしょうね、言語以前、文学以前といった印象もある。口承伝承とかそういうものに関連した印象を持ちます。双子たちは不思議な連絡の取り方をしますね。手話とか、portraitを描き合うとかね。言葉を棄てている。次の連で「太陽がラヴ・ソングのように降り注ぐ」とあるから、語りは「言葉」の側に立ってもいるんだけども。「鉱物が子宮のように暖められ」と続いて、この比喩は健やかにも見えるんだけど、非常に暴力的なことを言ってもいる。あとは、「わたしたちはいつも隠れて私語を縫っている」。これだけだとパワーフレーズな感じがしてやや重たいんだけど、その後がとても巧みです。「夏至前の、夕餉を準備するとき、透明な蝉が一匹、糸のように鳴く。」の糸のように鳴くとかは、半端ではない。「その鳴き声に背中では気づいていながらも、静かに食卓を整えていく。」、この辺も上手い。これを出すのかと。これだけ物を出すとふつうはごたついてくると思うんだけど、それを読ませきるという。最後に「いつの間にか半袖の服を着ているのだった。」ときて、白シャツかなとか考えたんだけど、そういう肉付けの仕方が上手い。でも汗の感じはしない。そういう良さがある。
本野:汗腺の話、めっっちゃ的確だと思います。的確オブザイヤーあげます。
本野:これ、「ラヴ・ソング」もいいよね。双子たちは言葉を棄てているんだけど、この語り手はラヴ・ソングを知っているわけで、歌なんて言葉の最たるものだし、やっぱり「私」だけ特別だよね。
郡司:portraitもそうだし、ナカグロをこれ見よがしに使うところも空気感作りを意識しているよね。
本野:ハンカチーフみたいなノリね。
本野:細かいところなんだけど、「彼らは半跏を組み自らの白い肌を焼いた。」の半跏って仏像とかに使う言葉の半跏だよね?
郡司:検索したら出てきた。
本野:双子を忌子として扱うのってタイの仏教の影響をかなり受けていたりするんだよね。だから、ワードのチョイスでも繋がっているのかと思ったり。タイの仏教の中だと、双子は年功序列を乱すものだから良くないとされていて、それが色んなところに伝わってきて双子が忌子ですみたいな話が広まったらしい。またちょっと話がズレるんだけど、『宝石の国』という漫画があって……。
郡司:あーーーわかる。めちゃくちゃわかるその連想。良い例え漫画持ってきたな。
安里:ほー。
本野:こういうやつ(漫画を見せる)。
郡司:舞台が抽象的だったり、透明感があったり、登場人物が兄弟みたいだったり、雰囲気似てるね。
本野:で、そうだ、話したいと思っていたのが、鍵が云々のくだりが少し難しかったんですよね。「描き合う彼らの姿は最も尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられていなかったからか」に対して、「泉のように自閉していたにも関わらず」のつながりがなんか違和感を感じたというか、自閉していたから鍵がかかっていなかった、とかそういうことでもないかな。だめだ、話ごちゃごちゃになってきた。「徒然草」の「柚子の木」の話じゃないけど、泉に外的要素が入ってしまうとそれは完璧ではないけど、泉だけでみるとそれは完璧みたいな話をしているのかなと思ったり。双子の関係が自閉しているのにそこに鍵がかかっていないというのが矛盾しているようで、どういう風に読んだら良いのか若干悩んでしまって。
郡司:鍵がかかっている状態とは何か? みたいなこと?
本野:いや、えーと、双子は泉のように自閉しているわけじゃん。内側から閉ざされている?
安里:鍵がかかっていないと言っているのに、自閉していることへの違和感?
本野:そうかも(?)説明的に考えすぎですかね。
安里:あーなるほどね。一応読みとしては、三連目が「喋らない代わりに彼らはportraitを描き合った。描き合う彼らの姿は尊い鏡だったのだが、そこにはこの世の鍵がひとつも掛けられてなかったからか、なんの感情の前触れもなく、わたしはたとえば涼しい風が吹き抜けたときに涙を流していることがある。言葉を棄てた彼らは泉のように自閉していたにも関わらず。」とあって、「鏡だったのだが」や「掛けられてなかったからか」は詩的表現として処理してしまうかな。鍵が掛けられていないことを束縛されていないと読むかは別として、「関わらず。」で僕は違和感がなくなった。言葉を棄てて自閉していたのにも関わらず……。
本野:ああーー(解決した顔)
安里:わかった?(笑)
郡司:わかったの?(笑)
安里:論理性のみでは成り立っていないものを論理的に説明しようとしているからわかりづらくて申し訳ないのですが(笑)。言葉としては「関わらず。」が上手くそこを処理していて、いや、別に何も処理していなくて、というか言葉の理屈ではないのですが、処理しているように見えている。
本野:そうか、「関わらず。」ね。どこに係っているのかよくわかっていなかったです。
安里:係り方としては、「だが、」、「からか、」とか理由で結んでいるから、意味的によくわかなくなってくるんだけど、語感としては、「関わらず。」が上手く処理しているように見えると思った。
本野:なるほどなるほど。
安里:たぶんそうじゃないかな(笑)。
本野:ここ、絶妙に文の繋がりが妙だから、言っていることが反転、反転していく気がするんですよね。でもそうかそうか、わかりました。言ってしまえば、鍵を掛ける必要すらなかったという話ですかね。
安里・郡司:うんうん……?
本野:違うね。なんでもないね(笑)。
安里:笑。
郡司:いやいや、でも少しわかるよ。そもそも鍵が掛けられていないことと自閉していることは矛盾なく両立するじゃないですか。抽象的に考えずとも、鍵を掛けずに閉じている物は具体物はたくさんある。だからさっき本野さんが言ったような解釈でも無理はしていないと思いますよ。
安里:精読して意味を正確に理解しようとすると、「だが、」、「からか、」等のディスコースマーカーに「あれあれあれ?」って振り回されてしまうんだけど、ある一定のスピードで流し読んでいくときは、引っかからないというか、流して読めるところが上手いなと今思いましたね。
本野:ぱっと読むと読めてしまうところはありますよね。
安里:だまし絵的にぱっと読めてしまう。
本野:丁寧に言葉をはめていくと、確かに「あれ?」ってなる。でも、マリカーのダッシュ板ではないけど、何かの言葉をきっかけに引っ掛かりがほどける瞬間があって、おもしろい。それをルポっぽい散文詩でやっているのがまたいかついなと思うよね。
安里:『針葉樹林』は、行替えしない散文詩のほうがレトリックと馴染んでいる印象を持ちました。行変えすると言葉が浮いちゃうかもしれない。昔何かで読んだんだけれど、戦後派の詩人の一人が散文詩は怖いと書いていて、それは散文詩だと散文でいいじゃんてなっちゃう怖さがある、と。そこを超えて詩として機能させているのは凄みがありますね。
本野:完璧にまとめてもらっちゃったな(ニコニコ)。
「雪」
郡司:行変えの詩って言葉足らずな感じがしませんか? 散文詩だと饒舌気味になってしまうんだけど、行変えはそこが抑えてあって、この詩集のまた別の良さを映し出していると思って「雪」を選びました。まず、この詩集の見た目の話なのですが、装幀が銀、灰色ベースで、使われている写真も硬質な感じがします。そこが「雪」のとマッチしている。詩の内容で目立つのは、一連目と三連目で「あなたの両目」、「あなたの両の目」と繰り返しになっているところと、三連目に「この百合根は性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」と急にインパクトのあるフレーズが出るところ、あとは他の散文詩と比べてページの余白が多くて、雪のモチーフと響き合っているところですかね。もう少し具体的に読んでいきたいと思います。「雪」は、パワーフレーズのラッシュがすごくて、「生まれてから一度も/食事をしたことがない」、「描いた絵が/少しずつわたしに似てゆくことに/ずっと前から気づいていた」、「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」、「生きることは衣服のように白い」と、短い中で各連に印象に残るフレーズがあります。それをもったいぶらないで、次へ次へと進んでいく。そこがとても清々しい。詩の終わり方もきっちりしていて、「わたしには彼らが/息を止めているようにも見える/息を吹きかければ/硝子窓が曇る/生きることは衣服のように白い」とありますが、息→窓→曇る(曇ると白くなる)→衣服のように白い、とイメージが鎖にように繋がっていきます。やや丁寧過ぎる印象はありますが、終わるべくして終わる感じだなと。
本野:生の紙を持って、装丁が云々言いながら読み合うのは、古典的だけど熱いよね。この収録オンラインで画面に向かって喋っているからそこだけ現代的だけどね(笑)。「雪」は、「野鳥のこと」、「冬のsweater」と少し生臭い詩が続いていたところで、急に深夜の住宅街みたいな静観に落とされた感覚があったね。「生きることは衣服のように白い」はクリティカルだよね。リンカーンの「朝までそれ正解」ではないけど、「い」から始まる「生きることとは?」みたいな問いがあったら、「衣服のように白いこと」が強いアンサーになる(笑)。この後の話にも出るだろうけど、百合根のくだりをどこまで深く読むのが良いのかが気になる。生っぽく読んだ方がいいのか、全体となじませて読んだ方がいいのか。まずはそんなところです。
安里:装幀の話が出たけれど、サイズ感も良いですよね。『針葉樹林』は僕の句集も手掛けてくださった佐野裕哉さんが担当しています。
郡司:左右社は確かにこういう系統の装幀多いですよね。
安里:そうですね。佐野さんの装丁は白を基調としたものが多い気がします。余白の話も出ましたが、本ってめくって読む意味はとてもあるなと思っています。それで、「雪」の感想ですが、ダジャレみたいですこぶるダサい読みをいきなりしてしまうと、「skin/風邪をひいても、/背中を撫でてやれば大丈夫なはずだ」のskinは、肌なんだけど音がくしゃみっぽいなと思いました。ただそれだけなんですけれども。
本野・郡司:笑。
安里:さっき話に出ていた「生きることは衣服のように白い」とかのパワーフレーズって、使うのがとても難しいと思うんですよね。「生きることは衣服のように白い」、まあ言ったら負けみたいなところもあるんだけど、それを成り立たせるあたりがすごいですよね。モチーフは、知恵の輪とか硝子とか息とか鍵とか、これまでの詩に出てきた物もちらほらありますね。
郡司:知恵の輪は「ハイ・ウォーターズの双子たち」にありますね。
安里:そう、ハイ・ウォーターズと響き合うところも多い。「酸素は薄く、彼らはなるべく呼吸を浅くして、」とかは「雪」の最終連と合いますよね。肌は領界性でもあるというか。肌は自身の身体と外界を隔てるものでもあると思うんですけど、グロテスクさは肌ではないところにある気がしています。口とか、目とか、鼻とか、性器とかにグロさがある。「あなたの両目は/笊として雪を透視していて/生まれてから一度も食事をしたことがない」とあるんだけど、汗腺のグロテスクさの延長にあるような感じがする。食事をしたことがない、食べるというグロテスクな営みをしていない。あとは、「あなたの両の目」とか「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」とか「息を止めているようにも見える/息を吹きかければ」のあたりは汗腺のなさが目立つ。そうしたぎりぎり生々しくない感じの積み重ねが、グロテスクへの拒絶、とまではいかないんだけど、アンビバレントな形で「生きることは衣服のように白い」を許している感じがするのかもしれない。お二人の話を聞いていてそんなことを思いました。
郡司:ありがとうございます。「雪」と「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」の関連は僕も思いました。どちらの詩も知恵の輪が印象的ですけれども、「雪」では知恵の輪をほどいてしまうんですよね。ハイ・ウォーターズでも田園でも、詩の中に語り手と語られる対象がいて、詩の後半で「わたしたち」と括られるのですが、「雪」は最後まで私は私、相手は相手のままです。「わたしたち」になることはない。そこが象徴的に知恵の輪の繋ぎ/ほどきで表れていると思います。
本野:鍵とかもあるね。ハイ・ウォーターズは南京錠で、雪は差し込むほうの鍵っぽいけど。
郡司:うんうん。あとはそうだな、百合根をどう読むかは迷うよね。
本野:さっき安里さんが言っていたグロテスクさにつなげる読みが一応それっぽいよね。
郡司:うん。百合根のくだりがあるおかげで逆説的に臭み消しになっているという機能的な話は納得できる。百合根もそうだけど、この詩に限らず確かに言ったら負けみたいな強烈なフレーズは創作上あると思っていて、例えば「生きるとは」とか「愛とは」とか「人生とは」とか……。そういう言い回しは使えば使うほど言いたいことが手から零れ落ちてしまいがちですが、「雪」はぎりぎりのバランスで成り立っているように思います。
安里:幻想文学っとぽさは思いますよね。エログロの角度でもその印象はある。須永朝彦だったかな、男性器が百合の話とかあったと思う。割りとベースは日常なんだけども。まあまあでも、全体の中でみて「この百合根は/性器を持たぬ百姓に植えられたのだ」はビックリしますよね。なんでここの位置、みたいな。
本野:百姓とかは百合根から摘んできた言葉なんだろうな。
郡司:この詩は短さゆえにずっと全力を出していると思うのですが、出し切った先にある脱力感として「生きることは衣服のように白い」がある感じはします。
本野:この詩集全体の流れとして、「雪」のあとに表題の針葉樹林が出てくる詩(「songs of experience」)なんだよね。それを踏まえると、「生きることは衣服のように白い」は先に言っておきたかったのかなとか思うな。話が少し戻るけど、散文詩のほうは世界観の作り込みがすごいけど、改行詩は、主体の感覚に依った詩が多いよな。
郡司:それは思うんだけど、なんでそうなるんだろうね。もちろん形式が変われば働く力学を変わってくるんだろうけど。「野うさぎ」とか読んでもすごくぶつ切りだよね。頭の中で浮かんできた言葉の断片を書き起こしていったみたいな感じ。それに対して散文詩だと、言葉先行というよりは世界観先行で書かれている。
本野:改行詩の世界観が狭いというより、散文詩の作り込みの意識が高いのかな。別に散文詩ででも「雪」みたいな雰囲気で書けると思うんだよ。でも、ほとんどすべての散文詩が状況説明的に書かれていて、詩集の最後の「クォーター・サイレン・ハウスで三日間を過ごした」もそうだし、「ハイ・ウォーターズに住む双子たち」や「絵の中の美濃吉」もそう。
郡司:そうねー。「wild flowers」の導入とかもそういう感じ。
本野:そうそうそう。
郡司:これから事件が起きますよ、みたいな。
本野:「pet cemetey」の導入とかもそう。
郡司:これまでの話を受けて、僕はやはり改行詩のよさは前提とか作らずにいきなり殴れるところだなと思いました。ラッシュで殴り続けられる。あんまりラッシュされてもくどいんだけど。
本野:詩集前半の「sad vacation」とかは比較的世界観盛ってるから、全部が全部「私」の感覚を詩にするというわけではないけど、後半に行くにつれて「雪」みたいな改行詩は増えるね。「リヴ」とか好きで選ぼうか迷ったんだけどね。
郡司:まあこれくらいでいいか、「雪」。
本野:散文詩と改行詩の違いについて話せて良かったと思います。
「絵の中の美濃吉」
安里:この詩集の中で最南端と最北端があるとしたら、「絵の中の美濃吉」がそのどちらか一方でしょう。「美濃吉」という名前がまず時代がかっていて目を引きますよね。前の詩には「スラ」、他の詩にも「虹郎」とかって個性的な名前は出て来ましたけど。この詩も、ハイ・ウォーターズと同じように、耽美的で、スティグマを負った人を描いている。「彼は生まれつき音が聞こえなかったのである。」の部分とかね。ここが思想を分けますよね。その辺も含めて極まっている印象がある。冒頭が「たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院を鏡のように並んで走り抜ける。」と仮定形で始まって、そこから詩が続いていく。仮定しているところにどんどん入り込んでいきます。「売れ残った林檎。瑞々しい陶片を拾うために美濃吉は労働をして過ごした」と続きますが、「労働」は少し言葉として重めです。「玻璃質の冷涼な大気の中で、美濃吉の腎臓はとく、とく、と健やかに水を受けていた。」ここはどちらかというと汗腺ある側という感じがしますが、清潔にデフォルメされているイメージもあります。次の連に移って、ここで馬について描かれるのですが、一つのモチーフについてしっかり叙述を重ねているのは、全体でみると珍しいと思った。「正確に言えば、その馬の精神だけを見たことがある。」とあるけど、連の頭で「盥に映る空が、舟のように揺れていた。」と書かれていると、その流れで拒絶感なく読まされてしまいます。「馬の肩から白く光る骨が突き出ていたからか、貝を食べる人々はそれを嫌った。すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。」、ここは今までの詩とも重なりますよね、「からか、」の文体とか、「貝を食べる人々はそれを嫌った。」の口承伝承っぽい印象。科学以前、迷信や怪(しるまし)を信じている感じ。あるいは時間の書き留め方。何月何日に何があったとかではなくて、雷が鳴った日とか、ラヴ・ソングが降り注ぐ日みたいな、事柄で把握する感じ。「貝を食べる人々」という区別の仕方も、生活の仕方の差異でその集団を指しているところに口承伝承っぽい印象がある。これは脱線なんですが、中島敦に「狐憑」という小説があって、これに似ているなと思いました。文学以前のムラで物語めいたものを面白おかしく話す男が、最終的にはムラの偉いやつらに疎まれて殺されるんじゃなかったかな。詩や物語の始まりを考えさせる小説なんです。詩にもどると、「すると驟雨が来て、新鮮な野菜は甘みを増した。」の理屈の壊れている感じも口承伝承っぽい。「井戸が眩暈をした朝があった。美濃吉は昔から人間より事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪摘んで、その闇に投げ落とした。」と来て、無理なく且つだれずに読めた。その次の連がこの詩集の帯に抜き出してあるのかな。「馬の背中は喪失的にうつくしい作文だった。」、作文という語の選択が上手いです。文、ではない。「夜風に靡いた草は妹のように泣いた。」。ニューウェーブ短歌でも「妹」は偏愛されるモチーフだったかと思います。兄妹始祖神話という想像力までは飛躍するのかな、どうだろう。まあそこまで読むかは別として。次の連、「美濃吉が行く地獄とは、たとえば理容院の二重らせんのことだ。それはたくさんの折鶴の首でできた地獄である。」ここで詩の冒頭と重なってきます。「わたしは過ぎてゆく秋の車窓のひとつひとつに密告をする。」、車窓もよく出てきますね。ここの「車窓ひとつひとつに密告をする。」はすごい表現で、車窓の内側ではなくて、外側から乗っているひとりひとりに密告するという。で、最後の連、「整然と並べられた無数の椅子の脚。」、ここは本野さんが「田園」で指摘したように規則性が表れている感じ。「彼が思わず口を開け「あ、」と漏らしたときの未必の故意の、一幅のなかに吹き抜ける風の。」、法律用語が出てきて、たぶん自殺のことをほのめかしているのかな。最初にこの詩を読んだときは美濃吉の存在が少し浮いて見えたけど、諸々の極まりとかモチーフとか書きたいであろうこととか考えると、オーソドックスな感じがしてきた。全体の射程の中で広いところを見ていると思ってこの詩を俎上にあげました。ただ、「美濃吉」という人命ににどの程度含みがあるのかわからず、知っている人は知っている話があるのかななんて。すみません。かなり長くなりました。
郡司:ぜんぜん問題ないです(笑)。そうですね。美濃吉にだけではなく散文詩全体に言える話なのですが、時間の経過が特殊ですよね。簡単に言うと「バグったあらすじ」みたいな。もっともっと長い長編の物語があり、それを無理やりぎちぎちにあらすじにしたらこういう散文詩になった感じがする。ジュラール・ジュネットの『物語のディスクール』でいうところの物語内容と物語言説の長さの話。超要約法で書かれているみたいだなと。超要約法なんて用語はないけど。あれに近いです。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文体に。『百年の孤独』も物語内容の長さに対して物語言説が短すぎて、笑っちゃうような速度で展開が起きます。この詩は冒頭がたとえばから始まりますが、宙づりのまま詩が駆動していくところは、この詩集における直喩の機能とリンクしていると思います。栞文で松下育男が「喩えるものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまう」と述べていますが、まさにそれに近いことが起きている。「たとえば」の仮定の話の中でどんどん話題がスライドしていく。五連目ではまたもう一度「たとえば」が出てきます。こうした運動は、直喩でやっていることの別バージョンだと言えると思います。「田園」の金田一少年の手紙の絵のくだりも同じです。あとはそうだな、詩集の帯に書いてある四連目はシンプルに上手いですよね。「喪失的にうつくしい」とまで書かれるとかなり警戒するんだけど、「作文だった。」の落とし方がテクいというか、やや幼い語彙の使用がハマっているっ感じがする。最後の行の「吹き抜ける風の。」の言いさしも良いですよね。タイトルが「絵の中の美濃吉」とあって、「絵の中」と書かれると初手から閉塞感が漂うんだけど、最後に爽やかにオープンエンドな感じで終わることで、イメージの反転が起きて気持ちいい。僕も長くなった。本野さんどうぞー。
本野:よっしゃもうこれ難しいからパッションだけで話すぞ〜! まずね、美濃吉がかわいそうだと思った(笑)。
郡司・安里:(笑)。
本野:なんだか美濃吉がいるせいで世界がマイナスに傾いているような書かれ方。みんなが美濃吉を排除したがっているように読めたな。美濃吉は超純粋な感じがするのよ。でも、美濃吉を世界は受け入れていない。馬のくだりのところ、美濃吉は馬が好きなんだけど、貝を食べる人々は馬も美濃吉も嫌ってそうで。
郡司:遠まわしに迫害されていそうな気はするよね。
本野:そうそう。これは妄想だけど、美濃吉が貝を食べる人々に話すんよ、「こんな馬がいた」って。すると貝を食べる人々は「いや、俺たちはそんなにあの馬のこと好きじゃないけどな」と遠まわしに美濃吉を嫌うみたいな。中学生ぽい。
郡司・安里:笑。
本野:あと、美濃吉は事物と交流できるとされているのに、事物側は美濃吉をあんまり好いていない感じもする。この絵=世界は美濃吉がいない状態で完結していて、美濃吉がいるせいで歪が生まれているとすれば、最後の夢を見る場面、美濃吉は徐々に身を削られていって、死に近づいているとも解釈できる。でもね、なんで世界が美濃吉を排除したがっているのか僕は絶妙に違和感があって、美濃吉がいるおかげで世界に均衡が生まれている感じもするんだよ。井戸の場面とか、耳が聞こえないおかげで美濃吉は不幸から免れているじゃない。美濃吉が世界の穢れを引き受ける歯車になっているようにも読める。パッション読みなんだけどね。
郡司:いや、おもしろいおもしろい(笑)。
本野:本当にかわいそうな感じするのよ、美濃吉。
郡司:「闇からは美濃吉を呼ぶ声が絶えなかった」はこわいよね。ダークサイドに勧誘されるのはつらそう。
本野:でも美濃吉はそれが聞こえないんだよね。もしかしたら、美濃吉が花を井戸に投げ入れなかったら大干ばつが起きていたかもしれない(笑)。ふつうの人だと闇に引き込まれて生贄になってしまうから。
郡司:生贄、わかるわ。耳が聞こえないとか少し疎まれてそうな感じとか、未開拓の村で生贄にされてしまいそう。
本野:井戸に対しては最強キャラになっている美濃吉。デメリットないわけだから。美濃吉って名前の時代観もそういうイメージを寄せてくる。
郡司:よくわかっていないのですが、美濃吉は名前に何か元ネタがあるんですかね。
安里:どうなんだろうね。ある一定層以上の年齢の人には浮かぶのかな。
本野:えーなんだろう。共通認識があるのかな。
安里:歌舞伎とかであるのかな。
本野:名字「林」のやつはガタイ良い、みたいな変な偏見レベルのことを言っているのかな(笑)。
安里:ふつうに検索するとレストランが出てくる。美濃吉はふつうにいそうだもんな。虹郎はあいないと思うけど、いないことはないか。
郡司:俳優に村上虹郎がいるので意外といると思いますよ、虹郎。
本野:ウーアの息子ね。
安里:現代にいるんだ。キラキラネーム、いかついな。
郡司:何にも関係ないとして、それでも「美濃吉」を詩の中で使うのは難しそうですよね。だって「美しい」「濃い」「吉」って。もりもりだな。
本野:美濃吉を見たときに、新見南吉を直観で連想しまったな。作中の登場人物にいそうだなと思って。時代背景も近い感じで。
郡司:そうね、この詩の語彙は意識的に現代的なものを使わないようにしている。理容院だけが目立つけど。他だけ読むとまだ鎖国してそうな雰囲気。
安里:その感じでいくと、「労働」とか「馬の精神」とか「事物」とか出てくるから、明治くらいなのかな、そのころから理容院の二重らせんがあるのかわからないけども。「たとえば」で始まる「地獄」をどう読むかはやや難しいです。
本野:地獄は絵の中を一歩出た世界に見える。ここで「私」が出てきて難しくなってしまった。童話とか絵本を読むみたいなテンションで読んでいたら急に「私」が出てきて、メタっぽくなったなと。ここで「私」は密告しているんだけど、うーん、美濃吉について言っているのか、なんなのか。
安里:地獄は想像の世界でしかないわけだけど、不思議なのは、そこには無人駅があって、枕木がとろとろと眠りについていて、そこに語り手の私がいること。しかも地獄にも秋があるらしい(笑)。美濃吉についてずっと語っていたのに、美濃吉を起点に、気がついたら語り手が地獄の中にいて、相関がおかしなっている。世界の構造がやや難解に変化していく。
本野:「吹き抜ける風の。」を感じているのは「私」な感じがするよね。最後に美濃吉の呼び名が「彼」に変わるんだけど、ここで明確に視点があることが判明する。これって「私」あるいは「読者」の存在が詩にズレこんで来てませんか。
安里:「吹き抜ける風の。」が「私」側、というか読者側だとするなら、「未必の故意」は「彼」を助けないという意味で解釈できるのかな。ミヒャエル・ハネケという監督の『ファニーゲーム』という胸糞映画の一コマを思い出したな。山小屋に家族で泊まりにいくのですが、嫌な二人組がそこにやってきて家族を虐待しまくるという。途中でお母さんが銃を奪って二人組のうちの一人を撃つんだけど、もう片方の男がリモコンの逆戻しボタンを押して、画面を巻き戻してしまうんです。見ているこっち側の感情を逆手にとって演出してくる。そういう感じと近いと思った。観ているわたしたちの欲望と「未必の故意」の関係が。
郡司:地獄にくだりのおもしろさがわかってきました。この連までは読み手は美濃吉を追いかけてきたのに、気づけば「私」=読み手側が地獄にいる。読者とテクストの見る/見られるの主客関係が逆転してしまっているようです。安全圏から詩を読んでいるつもりが、実は逆で「私」=読者が詩の中の住人だったと気づいたような不思議さがある。こちらの認識を揺さぶられる。地獄という場を通して、詩世界の層と現実の層と地獄の層を力技で重ねに来ていて、ダイナミックだと思いました。
安里:難解っちゃ難解ですね。
本野:でもいまライブ感あって良かったですね。
郡司:謎は多いですね。冒頭の「二人の女」も以降出てきませんし。
安里:うん。だから大成功なんでしょうね。この詩は。「意味ではない」というと便利な言葉なんだけど、情報を伝えるための詩ではない。理容院が出てくる理由もわからないです。地獄のイメージとして二重らせんとか折鶴の首はわかるんだけどね(笑)。
郡司・本野:うんうん。
総評
郡司:今日の会の全体的な感想にいきたいと思います。
本野:楽しかったよね。
郡司:いや、お世辞ではなくて(お世辞だったら問題)ゲストが安里さんで本当によかったと思いました(笑)。
安里・本野:笑。
本野:間違いない。
郡司:繋がりのないガチ詩人の方を突然呼んでしまったら、あまりに共通の読み文脈が少なくて、ここまで読めなかったと思うんですよ。短詩界隈にいてかつある程度射程を広く物を読んでいる安里さんだからこそ、楽しく読めたと思います。同年代を呼んでも読みの感覚が近すぎて良くないと思ったので、少し先輩の安里さんに引き受けてもらえて助かりました。
本野:詩集を読むのは難しいね。俳句とか短歌ならどこがポイントかわかるけど、詩だと使う筋肉が違うから手探りになる。でも、色々見つけることができて良かったです。散文詩と改行詩の違いも。あと、今日一番勉強になったのは、汗腺の話(笑)。
郡司・安里:笑。
本野:汗腺の話は最高だね(笑)。
安里:僕も勉強になりました。「絵の中の美濃吉」とか特に好きで、自分ではかなり読み込んでいるつもりだったけど、未必の故意のところは話しながら新しい気づきがありました。語りの位相についても。短歌俳句を読むと、批評的な見方になってしまうからどうしても力量の話になるんだけど。
郡司:笑。
安里:笑。わかるじゃないですか(笑)。現代詩を描く人のノリがわからない分、楽しくやれましたね。
郡司:はい、みなさん今日は本当にありがとうございました!
安里:お呼びいただきありがとうございました。創刊号の発売が楽しみです。